「五年……か」
 小さな呟きは、暗い空に吸い込まれて溶けた。
 彼女は今日、二十一回目の誕生日を迎える。あの、小雪のちらつくほど寒い、遠い遠いアレクサンドリアで。



明 日




 この五年で、世界は全くの様変わりをしてしまった。
 霧の大陸の霧が消え、霧機関が使えなくなった。代わりに蒸気機関が栄え、飛空艇も鉄馬車も、今ではみな白い煙を上げながら走るようになった。
 アレクサンドリアの女王が代替わりした。先の女王は戦乱のうちに命を落とした。その最期は、国家元首のそれとしてはあまりに惨めなものだった。
 あの戦乱で世界は破壊に破壊を尽くされ、荒野と化してしまった。しかし、そんな戦の傷跡も、今ではほとんど目にすることは無くなった。復興を目指して力を合わせていた人々も、もうそんな辛酸はすっかり忘れてしまったかのようだった。それはそれで、穏やかな、平和な世界だったが。
 ジタン・トライバルはリンドブルムの将校になった。あの戦乱で死んだと思われた彼が二年ぶりに戻ったときには、誰もが驚かずにはいられなかった。誰もが彼の生還を喜んだ。
 そして。
 誰もが、彼らの再会を祝福したのに。どうして再びの別離を迎えようと考えたろう。
 ジタンはアレクサンドリアを去った。木枯らしの吹き荒ぶ石畳を、音もなく踏みしめて。
 もう二度と訪れることはない、彼女の愛するあの街を。






「雨か」
 空を見上げて、ブランクは呟いた。
 リンドブルムに雨は珍しかった。このまま降り続けば、狩猟祭にも響いてしまう。なにせ、あと一週間しかないのだ。
 真冬の雨は冷たく、往来の人々は不満の声を上げながら家路を急いでいる。しかし、ブランクはあまり急ぐこともなく、降り注ぐ雨にすっかり濡れながら、アジトへの道を歩いた。


 アレクサンドリア王女、十六回目の誕生日。


 なぜ、そんな言葉が今更胸を掠めたのだろう。あれはもう、随分と昔のことなのに。誰も彼もがまだ幼く、世間の厳しささえ知らない子供だったあの頃。


 アレクサンドリア女王、二十一回目の誕生日。


 今日ほど、あいつにとって辛い日はない。
 なぜ、誰かが救ってやらないのだろう。或いは、もう誰にもそんなことはできはしないのだろうか?
 たった五年なのに、いろいろなことが変わってしまった。
 何も変わらなかった方が、何も起こらなかった方が、たぶんみな幸せだったのかもしれない。


 雨は容赦なく降り続け、リンドブルムの街を鼠色に染めていった。
 それはまるで、遠いあの街にいる彼女が、泣いてでもいるかのような雨だった。






「どうしてダガーはジタンに付いて行かなかったのかな」
 エーコは小さく呟いた。
 その呟きを聞いたフライヤは、少しだけ目を細めた。
「こんな風に別れてしまったら……もう二度と会えないなんて」
 エーコは嫌、と、最後は風の音に掻き消されるほど小声になった。
「付いて行きたかっただろうのう。例え引き換えに命を差し出さねばならなかったとしても」
 フライヤは窓の外を見遣った。大粒の雨が灰色の空から降り続き、いつもは陽気なこの街も、今日ばかりは陰気な、虚ろな表情を見せていた。
 あぁ、この雨は彼の涙かもしれない。泣く場所さえ失ってしまった、彼の。
「ダガーが付いて行かなかったのは、国のためなの?」
「いや……そういう理屈では、割り切れぬものかも知れぬな」
「なら、ジタンが付いて来てくれって言わなかったのは?」
 付いて来てくれ。
 言いたかったのだろうか。言いたかったけれども、言わなかったのだろうか。……それとも、言えなかったのだろうか?
 ずっと昔、国を出てゆく人に言われなかった言葉を思い出し、その時の彼と自分の想いを反芻してみたが、しかしフライヤは悲しげに頭を振っただけだった。



 言えば、彼女は苦しんだろう。酷な選択を彼女に強いることになったのだから。アレクサンドリアを選んでも、自分を選んでも、彼女は結局苦しんだろう。
 だから、その選択は自分が。苦しみも哀しみも、全ては自分が背負って去ればいい。
 全てを自分のせいにして、彼女は幸せに生きて欲しい。

 それでも、隣に彼女がいてくれたら、あの穏やかな寝顔が傍にあったら、そう思ってしまうのはきっと自分の我儘なのだ。自分のことを忘れて幸せになって欲しいのに、どこかでずっと覚えていて欲しいと、想っていて欲しいと願ってしまうのは。


 あの街で、笑っていて欲しいのに。


 差し出された傘に、一瞬目を見開く。
 雨は止むことなく降り注ぎ、石畳も家々も冷え冷えと濡れそぼっていた。彼の太陽のような金色の髪も、今は濡れて鈍い色を放っていた。
「寒いぞ」
 注意でも問い掛けでもなく、ブランクはそう言った。吐く息は真っ白で、雪にならないのが不思議なくらいだ。
「ああ、そうみたいだな」
 ジタンはぼんやりと答えた。冷たい雨は、彼の顔色さえ奪っていた。
「お前も濡れてるじゃん」
「さっき帰ってきたんだよ」
 首に掛けていたタオルを取り、ジタンの頭に載せた。
「急に降ってきたからな」
「そうなんだ」
 雨は涙に似ている。空を見上げながら、こいつも泣いているのだろう。
 前髪からぽつっと、小さな雫が落ちた。
「さっさと拭いちまえよ。濡れたまま中に入るとルビィがうるせぇぞ」
「ん」
 しかしジタンは空を見上げたまま、動こうとはしなかった。

 泣いている。
 あの遠い街で、泣いている。

 どうして傍にいて、駆け寄って、抱きしめてやれないんだろう。
 大丈夫、ここにいる。ほら、もうすぐ雨も止むさ。
 そう言って、慰めることもできないなんて。
 ダガー。
 春が来たら、この胸の痛みは去るだろうか。
 ダガー。
 夏が来たら、また笑えるだろうか。
 秋が来たら、冬が来たら……
 いつかこの命が終わったら、あの場所でまた会えるだろうか?


 雨は止まない。
 風が悲鳴を上げて通り過ぎてゆく。
 あの街で、彼女が泣いている。






 ただ、笑っていればいい。例え心で泣き叫んでいたとしても、唇に微笑を乗せ、瞳に光を宿し。
 ガーネットは窓の外を見上げた。
 酷く晴れ渡って、刺さるほどの青が広がる空。彼の目を覗き込んだ時と、同じ色。
 アレクサンドリアが寒く乾いている時、きっとあの街では冷たい雨がしとしとと降っているに違いない。
 彼は、凍えてはいないだろうか。震えてはいないだろうか。
 冷たくなった腕を、蒼褪めた唇を、暖めてくれる人が傍にいてくれたら……ああ、でも。そんなこと、本心から願ったりなどできない。傍にいてあげることもできないで、なんて―――なんて身勝手な。
「女王陛下」
 ガーネットは振り向いた。
 心が泣き続けている。あの日からずっと。
 あの街へ、涙になって彼に会いに行けたら。本当は、命も何もかも惜しくないのに。
「そろそろお時間です」
 従者が告げた瞬間、彼女は笑った。瞳にふわりと光が宿り、唇は綻びかけたバラの蕾のように。
「分かりました」
 ただ、笑っていればいい。
 それだけで、人々を幸せにすることができるのなら。
 でも、わたしはもう二度と、心から笑うことはないだろう。心の奥底に生き続けるあの人と共に、わたしの全てをここに封印してしまったのだから。



「アレクサンドリアへの入国はできません」
「馬鹿を言うな。俺はトレノの住民だぞ」
「許可の無い者は誰でも入国できないことになっているんです」
「いつからそうなった」
 大柄の男ににじり寄られ、門兵は少し後ずさったが、決して退こうとはしなかった。
「去年の暮れあたりからよ。何も知らないのね」
 ラニ―――と、突然目の前に現れた人影に、男は呟いた。
「間に合わなかったのよ、あなたがいない間に酷いことになって、急いでこっちに向かったけど」
 彼女は、あそこに独りよ。
 細い指が示したのは、白亜の剣塔。
「あいつは」
「死んじゃったかもしれない」
「まさか」
 ―――そんなに簡単にくたばる野郎じゃねぇぞ。
 サラマンダーはそう言おうとして、口を閉じた。
 死んではいなかったとしても、たぶん。






 雨の中を、傘も差さずに歩いてくる人影。雨空も石畳もあまりに薄暗く、その人影はほとんど漆黒と言っても良かった。
「ジタン」
 懐かしい人が彼を呼ぶ。
「ようやっと、会えたな」
 フライヤはコートに付いた雨雫を払ったが、次から次と落ちてくるそれは、払っても払ってもしつこく彼女に纏わり付いた。
 ブランクは差していた傘を少し上げ、挨拶代わりに目配せした。彼女もそれと認め、同じように目配せで返す。
「中に」
「いや、ここで結構じゃ」
 雨に溶けてしまいそうな金色。溶けて地面に吸い込まれて、消えてなくなってしまえば楽になれるのに。逃げる道さえをも絶たれた時、絶望は胸の内を渦巻くだけ渦巻き、掻き回すだけ掻き回して、全てを壊してゆくだろう。
 俺は外すよ、と、ブランクが呟いた。金色の頭に差しかけていた傘を、一瞬どうしようかと惑う。それを見て取ったフライヤは、瞳に笑みを込めて受け取ってやった。

「今日で五年か」
 雨音は激しく、フライヤは濡れることを気にもしなかった。
「早いものじゃ、ダガーも二十一とは」
「三つ子はどうしてる?」
 ジタンは唐突に尋ねた。
「元気にしておるぞ。元気が有り余って、毎日大騒ぎじゃ。おぬしと初めて会うた頃のことを思い出してな。どうしておるかと」
「それでわざわざ出てきたのか」
「アレクサンドリアへ行くために、じゃが」
 金色の頭は無反応だった。
「しかし、ダガーには会えなんだ……守りが堅くての。変に騒ぎを起こすのも考え物と思うて、引き下がったが」
 雨は益々激しさを増し、まるで彼の胸の内を吐露しているかのようだった。
「もう、いいよ」
「良くはない」
「ちゃんと子供の傍にいろよ」
 フライヤは翡翠色の瞳を落とした。彼は相変わらず虚空を見つめたまま、微動だにしなかった。
「そんな犠牲、オレもあいつも望まない」
「しかし」
 フライヤの胸にどこかから激しい悲しみが流れ込んできて、彼女はしばらく黙った。
「何もさせてはくれぬと言うか」
「言う」
「おぬし、諦めるつもりか?」


 諦めるわけじゃないんだ。
 他にどうすることもできないだけで。
 彼女は生きろと言った。遠く離れていても、生きていて欲しいと。
 オレに、その願いを突っぱねるだけの強さなんてなかった。オレのせいで、誰かがまた傷付くなんて耐えられなかった。
 だから。
 諦めたわけじゃないんだ。
 ただ、どうにかできる方法なんて、もうどこにも見つからないだけで。






「今日がどんな日でもさ」
 雨上がりの後の澄んだ星空は、目に痛いほどの眩さだった。
 肩を並べて見上げたあの空と、きっと何も変わってはいない星空。それ程に、自分の存在は小さく、取るに足らないものなのだろう。
 あの街で、彼女も同じくらいに苦しんでいるのだろうか。哀しんでいるのだろうか。
 そうだとしたら、自分が苦しいより哀しいより、辛い。最早、恐怖と言ってもいいかもしれなかった。
 彼女の苦しみを、哀しみを。どうか全てをオレの背に。
「明日は、来るんだよな」
「そういうことが言えるようになったんやったら、きっと乗り越えられると思うで」
 ルビィは静かに微笑った。


 明日が来ることを、信じられない。
 明日という日があることが、不思議にさえ思えてしまう。
 明日になったら、何か変わっているだろうか?
 明日になったら、彼女は今日より笑うだろうか?
 明日になったら、彼女は今日より自分を忘れているだろうか?

 明日になったら、彼女へと帰る日が一日近付くのだろうか?


「ほな、また明日な、ジタン」
「うん、おやすみ」



 今日は、1805年1月15日。
 君と出逢ったあの日から、五年。
 オレは、あの日見つけたはずの答えをどこかに落としてきてしまった。



-Fin-








平原綾香さんの「明日」を聴きながら書いたら、こんな感じになりました。暗・・・(^^;)
OPから5年後、我が家ではちょうど『月光』真っ只中です。
なので、OPから5年後とEDから5年後は期間は短いけれど、大違いな二人なのでした。

平原さんの「明日」は、
ずっと傍にいると誓った相手が去って、独りぼっちになってしまったけれど、
また新しい自分を見つけに行こうと、悲しみの中にも前向きな歌詞なのですが、
ガネ姫はともかくも(今回あんまり出てないし^^;)、ジタンはすご〜く後ろ向きですな(苦笑)
あぅ、お祝いページの初っ端がこれって、ちょっとどうなんだ〜?!(TT)
でも、暗い話は書くのが好きなので、自分的にはOKなのでした(笑)
・・・次回はぜひ明るい話で!(汗)

2005.6.12








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