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月の明かりさえ見えない夜更けの星空を仰ぎ見るとき。 雨の国に生まれた彼女は、まっさらな闇色の空に向けて、静かに息を吐き出した。 ああ、なんと美しいのだろう。 指を伸ばし、小さな星屑に触れようとする。届かないことはわかっていたが、そうせずにいられなかった。 ベガ、アルタイル。二人の間に流れる天の河。乳白色の星の流れが、夜空を横切って地平線へ沈んでゆく。 七夕の夜の澄みきった星空を眺めるとき。 彼女は、いつもあの少年を思い出した。 アレクサンドリアの街角で出会い、星になってしまった彼のことを。 *** 「鉄の尾フラットレイ……フラットレイねぇ」 「聞いたことはないか?」 「う~ん、知らないねぇ」 露天商の主は首を捻った。 この旅二度目のアレクサンドリア。風の噂に彼の人が立ち寄ったと聞き、再びこの地に舞い戻った。 「鉄の尾……いや、どこかで聞いた覚えはあるんだが」 「本当か?!」 思わず勢い込んだ女竜騎士に、彼は少し後ずさった。 「いやぁ、もう随分前のことだけど、城で不逞を働いただか何だかで大騒ぎになった男が、鉄の尾って呼ばれてたような覚えがあるんだけどよ。将軍様がどうしたとか何とか。どうにもよく思い出せないが」 「城で……不逞?」 フラットレイ様が、あの方が、そのようなことをするはずが無い。 フライヤは急にしょんぼりと項垂れた。その様子を見て、露天商の主は少し戸惑ったように頭を掻いた。 「いや、記憶違いだったかもしれないさ。どうにも、そういうことを細かく覚えてる方じゃないんでね」 ごめんよ、と、彼は気遣わしげな声で呟いた。しかし、フライヤは俯いたまま頭を振った。 「どうも、ありがとう」 この街に、あの方は立ち寄ったのだろうか。 城で、何かあったのだろうか。 王族を守り、国を守る使命を胸に刻んだ竜騎士が、他国の城で何をすると? 今すぐに訊きたい。何があったのかと問い質したい。 不意に、じわじわと胸の中を蝕むような痛みが襲ってきた。 ふらりと、側の壁に手を付いて寄りかかろうとしたとき。 「おねえちゃん、大丈夫?」 流れてゆく人波から少年が一人はぐれ、彼女の傍に立ち止まった。 顔を上げようとした瞬間、不意に耳に鳴れた音が飛び込んできた。 「それは……」 「笹の葉だよ」 それから、少年は肩に担いでいた笹をゆさゆさと揺すり、さっきよりも大きく葉の擦れる音を立てた。笹の葉さらさら、と、彼は小さく口ずさんだ。フライヤはさらに目を見開く。それは、紛うことなくブルメシアの童謡だった。 「その歌をどこで?」 「ブルメシア人のお兄さんが教えてくれた」 少年ははしばみ色の瞳で微笑んだ。 「こうして、七夕には笹の葉を飾って、お願い事を書いた短冊を吊るして、そしたら願いが叶うって」 おねえちゃんも、一緒に飾ろうよ。少年はフライヤの手を引いて裏通りを住宅街へと歩いていった。 「おねえちゃんは、何かお願い事はある?」 「願い事……」 フライヤは、少し前を行く少年の黒い頭を見遣った。 「会いたい人がいるのじゃが」 「じゃあ、その人に会えますようにって、書くといいよ。短冊たくさん用意してあるから」 教会の扉の前で、数人の少女たちが折り紙を折っていた。鶴、船、やっこ……。 懐かしさが込み上げて、フライヤは思わず泣き出しそうになったが、微笑みながら見上げてくる少年の瞳に涙は俄かに引っ込んだ。 「私も一つ折って良いか?」 「お姉さんも折れるの?」 少女が顔を上げ、少し驚いたように問う。 「折れるとも。はさみがあれば、天の川だって折れるのじゃが」 「ここにあるわ、はいどうぞ」 もう一人の少女が先の丸い子供用のはさみを寄越した。 「ありがとう」 フライヤはにっこりと笑いかけ、どの色を使おうかと無造作に並べられた折り紙を指でなぞった。 「川なら、青か水色じゃない?」 さっきのはさみの少女が勧めた。しかし、少年は頭を振った。 「天の川は、銀色だよ」 「銀……か」 フライヤは感心したように頷いた。 「お兄さんがね」 少年は折り紙の中から銀色を探し当て、フライヤに渡す。 「大切な人の髪と同じ色だから、すぐわかるって言ってた」 フライヤははっとして自分の髪を押さえた。見事な白銀色がふわりと舞う。 「お姉さんも髪が銀色」 「素敵ね」 「いいなー」 少女たちは揃ってアレクサンドリア人らしい栗色の髪を揺らしながら、盛んにフライヤの髪を褒めた。 「私、短冊には『大きくなったら、髪を明るい色にしてください』って書こうかな」 「無理よ、髪の色は一生変わらないもの」 少女たちはころころと、鈴の転がるような声で笑い合った。 「おねえちゃんも短冊にお願い事、書いて」 少年は細長く切った紙に糸をつけたものを数枚、フライヤの元へ持ってきた。 「会いたい人に会えるようにって、思いを込めて書けば、きっと願いは叶うよ」 少年も隣に座り込むと、短冊に何やら書きつけ始めた。 さりげなく、覗き込んでみる。 「お星さまになれますように」 「……星?」 意味がわからず、思わず声に出してしまう。 「ボクね、もうすぐ死んじゃうんだ」 「え……?」 フライヤは吃驚して少年の顔を見た。 「死んじゃったら、お星さまになるってお母さんが言ってたよ。ボクの記憶はお星さまになって、魂はクリスタルを巡ってまた戻ってくるって」 彼はもう一枚新しいものを手に取ると、今度は 「生まれ変わったら、またお母さんの子供になれますように」 と書く。 「おねえちゃんは書かないの?」 少年は無邪気な瞳でフライヤを見上げた。 「あぁ……今、書くところじゃ」 しかし、フライヤの手は止まったまま、動こうとしなかった。 「大丈夫だよ」 少年は微笑んだ。 「信じれば、きっと願いは叶うよ」 「私の願い事は、おぬしの願いに比べればずっと身勝手な、幼稚な願いじゃ」 「そうかな」 彼は小首を傾げた。 「会いたい人に会えないのは、寂しいことだよ。会いたいと思うのは自然なことだよ」 「そのために、何もかもを捨てたとしてもか?」 フライヤは低く呟く。それは、ほとんど独り言だった。幼い面影に、本気でそんなことを尋ねるつもりなど、彼女には毛頭なかったから。 「ボクは……」 少年はまっさらな短冊を小さなか細い指で玩びながら、囁き声で言った。 「お母さんの子供でいられるなら、命はいらない」 「何を」 フライヤは少年を振り返ったが、彼は遠くの家並みのもっと遠くの、遥か彼方を見たまま目を動かさなかった。 「星になれなくてもいい。お母さんの、傍にいてあげなきゃ」 少年は微笑んだ。胸が締め付けられるほどに、寂しい横顔で。 「おねえちゃんの大事な人も、いつか帰ってくるよ」 「そうじゃろうか……」 はしばみ色の瞳がふわりと笑いながら、こちらを見た。 「おねえちゃんがその人を必要とするなら、きっと帰ってくる」 突然、少年は立ち上がった。 「もう行かなくちゃ」 「お母さんが待っておるのか」 「うん、たぶんね」 少年はフライヤに向けて、右手を差し出した。 「きっと、また会えるよ」 フライヤも立ち上がり、小さな彼の手を握り締めた。 「明日、片付けにまた顔を出そう」 「そうしてくれるとありがたいな」 彼は笑った。 「おぬしに会えて良かった」 「きっと、また会えるよ」 そう言い残し、少年は夕闇の街へ戻っていった。戻りしな、「もう暗くなるから、早くお帰り」と、まだ折り紙を折っていた少女たちに声を掛けた。 その背中を眺めてから、フライヤは短冊に願い事を書いた。 「あの方が、どうかご無事でありますように」 例え、二度と会うことがなくても。 その瞬間、尖塔の先から一番星が光り始めた。 *** 「あの少年はどうしたのじゃ?」 笹の葉を見上げて立っている少女の群に声を掛けると、そのうちの一人が振り向いた。 「あの子、星になっちゃったの」 思わぬ返答に、フライヤは一瞬息を詰まらせた。 「いつじゃ」 「昨日の夜だって。お母さんのところへ行ってしまったって、ママは言ってたわ」 「ずっと病気だったんですって」 もう一人が口添えた。 風に揺れる笹の葉と短冊は、星になったというあの少年が確かにここに存在したのだと伝えていた。 そして、あの人もまた、間違いなくここに存在していたのだと。 少年の魂はクリスタルを巡り、いつか母と再会できるだろうか。 ならば、あの人は―――? *** 「母様!」 幼子の呼び声に、フライヤは家事の手を休め、振り向いた。 「母様、アレクサンドリアのエメラルド姫から手紙が来ておりました」 「七夕の夜に、ぜひアレクサンドリアへ遊びにおいでくださいって」 「ねぇ、行ってもいいでしょう? アレクサンドリアでは七夕は晴れるのですって」 「母様、いいでしょう?」 「いいでしょう?」 三つ子の娘たちは、いつになく必死に強請っている。無理もない、七夕の晩に晴れたのは、かれこれ二十年も前、私がこの子達くらいだった頃が最後なのだから。フライヤはふとそう思い、小さく笑った。 「父様が良いとおっしゃったら、な」 娘たちに極甘の夫が「ダメだ」などと言うはずもなかったが、フライヤはそう言って娘たちを追い立てた。 彼女たちは口々に「父様、お願い!」と叫びながら、ぎょっとしている父親に飛び掛っていった。 たまには、澄んだ星空を眺めるのも良い。折角だから、星になった彼のことでも探してみようか。 笹の葉と、折り紙をたっぷり用意して行こう―――ああ、短冊も忘れずに。