例えば、それで人生が変わるわけでもなかったし。
重要な出来事なわけもなかったのに。
ズシリと、重い痛みが胸を走った。
そこにあるのはただ、心臓を切り裂かれたような痛みだけ。
血さえ流れない、痛みだけだった。
Tantalus' Panic! 1798 〜Epitaph〜
「ブランク。おめぇ、母親に会う気、本当にねぇのか」
バクーは突然ブランクを呼び出し、そう切り出した。
「……ない」
「後悔するかもしれねぇぞ」
「それでもいい。会いたくない」
その頑なな様子に、バクーは溜め息を吐いた。
「そうか」
窓の外を見つめたまま、少年に背を向け、彼はしばらく黙っていた。
リンドブルムには珍しく、小雨の降る寒い日だった。
窓ガラスをパタパタと雨の滴が打ちつけ、その他には何の音も聞こえなかった。
時折鳴る、悲鳴にも似た北風以外には、何も。
バクーは灰色の空と灰色の町を眺めたまま、物も言わなかった。
「話はそれだけか、ボス?」
業を煮やしたブランクが、ついに尋ねる。
「いや」
「何だよ」
「うるせぇな、少し黙ってやがれ」
ブランクはむっとしたが、命令に従って沈黙を守ることにした。
一体、彼は何を考えているのだろうか?
いくら背中を眺めても、全く読めない。
自分が赤ん坊の頃に拾われて以来だから、もう十六年以上の付き合いになるのだ。
それなのに、この男の考えることはなかなか読めない。
向こうは自分たちの行動パターンも思考も熟知しているのだから、何となく不公平な気がする。
大体、最近かなり背が伸びたはずなのに、いつまでたってもこの大柄な男に近づけないのも悔しい。
追い抜いて行かなければならない、背中―――
「ブランク」
不意に、バクーは重い口を開いた。
「ん?」
「おめぇの母親だがな」
「うん」
「去年、死んだらしい」
バクーは初めて振り向いた。
褐色の瞳は、ぼんやりと彼を見ていた。
意味を図るのは難しいかも知れないと、バクーは思う。
赤ん坊の頃に自分を捨てた母親が、突然死んだなどと言われても。
しかし、赤ん坊だったこの子ももうすぐ十七になるのだ。
そろそろ、自分の居所を確認する必要がある。
―――どんな厳しい現実にも、真っ直ぐ目を向けられるように。
「このメモに墓の番地と番号が書いてある。行くか行かねぇか、それはおめぇが自分で決めたらいい。……まぁ、今更母親とも思えねぇだろうがよ、他に血の繋がった人間もいねぇようだしな」
半ば無理矢理、小さな紙片を握らせる。
バクーの口振りは「行ってこい」と言っているようだった。
それは、清算なのだろうか?
さっぱり片づけてこいという意味なのだろうか?
でも―――どこに置いて来いと?
この腐った痛みを。鈍い息苦しさを。
「……いらない」
「持っていけ。そんなもの、俺が持ってても仕方ねぇだろ」
顎で促され、ブランクは無意識に手の中の紙片にちらりと目を走らせた。
素早い瞳は、リンドブルムの共同墓地でも、貧しい階級の人間が葬られる無縁墓地を示した番地を読みとる。
これが、最後の番号。
母親の在処を示す、数字の羅列。
痛みと苦しみの発信源。
「行かない」
行けない。
今更行って、どうしろと?
俺は、捨てられた。
そして、そいつは死んだ。
もう、何も残ってない。
残ってないのに―――
「好きにしろ」
バクーは一言で片付けた。
***
初めて、自分が友達とは違うと知ったのは四つの時だった。
彼らには、父がいて、母がいて、時には兄弟なんかがいて。
でも、自分には親も兄弟もなかった。
ある時、友達の一人が「ブランクは拾われた子だから、お母さんが遊んじゃダメだって」と言ったことがあった。
そしてそれ以降、自分の周りにいたはずの友達は一人、また一人といなくなっていった。
足元にぽっかり穴が開いて、地面が消えて、もう二度と歩けないような感覚だった。
楽しげに戯れる彼らを横目に、アジトを一歩も出られなくなった。
そして、ある夜。
思い出してしまったのだ。
あの冬の日、自分を捨てていった母親のこと。
「じゃぁね」と一言、紅い唇が動いて。
冷たい石畳に置き去りにされて、泣いても泣いても彼女は戻ってこなかった。
泣いても、泣いても。
悪夢は消え去らなかった。
胸が痛くて、息がつまって、このまま死んだほうが楽だとさえ思って。
どうせなら、あの石畳の上に放って置かれたまま、死んでおけばよかったと思った。
なぜ生きるのか、なぜ生きようとするのか、自分でもわからなかった……。
部屋に帰ると、ブランクは忌々しそうに手の中の紙を握り潰した。
そのまま屑籠へ投げ入れると、それっきり、そんな紙つぶてのことは忘れることに決めた。
―――そんなこと、できるはずもなかったけれど。