その恋、春風のごとし


<1>



 ダイアン・フェイル・アレクサンドロスは、今日も剣の稽古に暇がなかった。
 ここ何年も、それこそ物心がつくかつかないかのうちから一緒に稽古してきたスタイナー三兄弟は揃って出征してしまったので。
 彼の練習相手はもっぱらその父親のスタイナー隊長だった。
「ねぇ、スタイナー」
 ダイアンは稽古が一段落したときに尋ねた。
「何でありますか、王子」
「どうして、父上が僕の代わりに戦に行かなきゃならないの? 僕、本当に行こうと思っていたのに」
 スタイナーは押し黙った。
「僕が行けば、それで全部丸く収まったと思うんだけど」
「あまりそのようなおっしゃり方はよくないですぞ」
 ダイアンは、え? と顔を上げた。
「すっかり父君の口調を真似されるようになって」
「そんなことないよ。父上の喋り方って独特だから、僕には真似できない」
 真っ直ぐな瞳で、彼はいくらか首を傾げて言った。
「スタイナーは父上のこと、嫌いなの?」
「そういうわけではありませんが―――」
「でも、いっつも喧嘩してるよね、父上とスタイナー。母上は喧嘩するのは仲のいい証拠だっておっしゃったけど」
 スタイナーは何とも言えず、決まり悪そうに目を逸らした。
 ダイアンはクスクスと笑ってから、不意に曇った表情になる。
「僕も父上みたいに強ければなぁ……。父上は『オレに勝てるようになったら戦に行ってもいい』っておっしゃったんだ。でも、そんなの永遠に無理なような気がする……」
 ダイアンは溜め息をついた。
「僕の剣がもっと上手かったら、姉上もウィルも、あんなことしなくて済んだのにね。ウィルなんて、スタイナーにたくさん叱られて、可哀想だったもん」
「それは、あやつの自業自得です、王子。よもや姫さまを城から連れ出すとは―――」
「でも、ウィルは優しいもん。きっと姉上のためにしたことだと思うよ、僕」
 そう言って、ダイアンはにっこり微笑んだ。
 と、城の城壁の辺りから、何人かの黄色い声が聞こえた気がして。
 スタイナーは勢いよく振り向いた。
 ―――どうも、最近。
 息子たちが戦地へ赴いた後ぐらいから、こんな風に良からぬ雰囲気がある。
 いわゆる、ギャラリー、というやつだ。
 確かに、今までは稽古と言ってもかなりむさ苦しい雰囲気のものだったが。
 時には一人で剣の素振りをしていることもあるため近寄りやすくなったのか、ダイアン王子に今や街の少女たちはすっかり夢中になっているという。
 スタイナーは顔を顰め、城壁の方へずんずん歩いていく。
「こら! そこで何をしておるか!」
 きゃぁっと複数の悲鳴が上がる。
 城壁に梯子を掛けて稽古の様子を盗み見ていた少女たちは、一目散に逃げ出した。
 ―――もう。あのウルサイおじさんさえいなければな。
 と思いながら。
「まったく、昨今の娘たちはどうなっておるのか―――」
 ガシャガシャいう鎧の音を響かせ、スタイナーはダイアンの元へ帰ってきた。
「あんまり脅かさない方がいいよ。スタイナー、顔が恐いから」
 と、ダイアンはにっこり笑った。
 ―――まったく。
 この王子はご自分がどれだけ娘たちを惹きつけるような容姿かということを、わかっておられるのか?
 スタイナーは溜め息をついた。
 父親が父親なだけに、心配である。
 ただ、救いがあるとすれば、ダイアンは父親に似ず、かなり真面目な性格だった。
「スタイナー殿ではありませぬか」
 不意に声がして、ダイアンもスタイナーも顔を上げた。
「おお、これは。フライヤ殿のご令嬢では?」
「いかにも」
 ネズミ族の若き女竜騎士は右手に持った槍を立て、ずいぶんかしこまったお辞儀をした。
「長女のセレスにございます」
「そうであったか。何分、フライヤ殿のお子はみなよく似ておるからな」
「そちらは―――ダイアン殿か?」
 呆気に取られて彼女を見つめていたダイアンは、とりあえず頷いた。
「なるほど、父君によう似てこられたな」
 セレスはふっと笑った。
「ま、そう言う私も母に似てきたようじゃが」
 スタイナーがもっともだと頷いた。
 銀髪に翠色の瞳。槍を持って立つ姿は母親のフライヤによく似ている。
「前に会うた時はまだ―――」
 と、彼女は手を腰の高さにかざし、
「このくらいの幼子じゃったがの、ダイアン」
 ダイアンは赤くなった。
「それ、いつのこと?」
「エーコ殿の結婚式じゃから、かれこれ十年近く前じゃな」
「あの時から比べれば、セレス殿も随分と大きくなられたではないか」
 とスタイナーが笑った。
「確かに。いかばかりか生意気なことを申したやも知れんのう」
 セレスも笑い出したが、ダイアンはよく思い出せないのか盛んに首を傾げていた。
「私のことを覚えておらぬか」
「―――うん、あんまり」
「フラットレイとフライヤの三つ子の、一番上の娘じゃ」
「三つ子?」
 ……ブランクのおじさんのところは、双子。
 スタイナーのところは三兄弟。
 え〜っと、ネズミ族の……
「ああ!」
 ダイアンは何かを思い出して目を輝かせた。
「踊りを踊った人たちだ」
「そうじゃ。よう覚えておったの」
 セレスはにっこりと笑った。
「おぬし、剣の稽古をしておるのか」
「え、う、うん、一応……」
「これは興味深い。一本お相手願おうか」
 セレスは槍を空中でぶん、と振るった。
「―――相手にならないと思うよ」
 ダイアンは自信なさそうに答える。
「やってみなければわからぬ。さぁ、どこからでもかかって来るがよい」


***


「それで、負けてしまったの?」
 ガーネットは笑い出しそうになるのを堪えて、息子に尋ねた。
「―――うん。負けちゃった、女の子に」
「女の子、と言っても、セレスはあなたより五つも年上じゃない」
「うん……」
 ダイアンは項垂れたまま、椅子に腰掛けた。
「負けるのって悔しいことなんだね、母上。僕、知らなかった」
 言われてみれば、この子が勝ったの負けたのを口にするのを初めて聞いた。
「―――ダイアン」
 ガーネットは腰を屈め、息子の肩に手を置いた。
「そんなにがっかりしないで。次に勝てばいいじゃない」
「とても勝てそうにないんだ、母上。セレスってすごく強いから」
「そうね……フラットレイとフライヤの娘だものね、彼女は」
 ガーネットは頷いた。
「でも!」
 息子の茶色い瞳を覗き込む。
「あなたも、お父さまの息子でしょう?」
 途端に、ダイアンは目を見開いて母親の顔を見つめた。
「うん」
 彼は頷いた。
「僕、父上みたいに強くなる!」
「そ、そうね」
 ガーネットは幾分苦笑混じりの笑みを零し、相打ちを打った。
「お父さまの剣術は、ちょっとあなたが目指しているのとは違うかも知れないけれど」
「そっか。父上は短剣しか使わないもんね」
 と、未だ盗賊刀など見たこともないダイアンは呟いた。
「僕は、騎士になりたいんだ」
「そう。じゃぁ、スタイナーみたいになるの?」
「スタイナーは嫌だな。あんまり格好がよくないから」
 ガーネットは思わず噴き出した。
「まぁ、ダイアン。そんなこと言ってはダメよ」
「でも、いつもあの重そうな鎧着てるんだよ、スタイナーって。ベアトリクスが言うには、寝るときも着ているんだって」
 と、ベアトリクスの冗談をすっかり真に受けてダイアンが言う。
「さすがに寝るときは脱ぐと思うけれど―――」
 と、ガーネットは自信なさそうに言った。
 以前共に戦いに出たとき、確かに鎧を着て寝ていたような記憶もある……。
「僕はもっと身のこなしの軽い方がいいな」
 ダイアンは何事かを考えながら呟いた。
 ―――そう、あのセレスみたいな。
 でも、彼女はネズミ族だから、絶対真似は出来ないけど。
「身のこなし、と言ったら、サファイアはどこへいってしまったのかしら」
 ガーネットは首を傾げて言った。
「サフィーは窓から飛び出して行くんだよ、母上」
 ダイアンが告げると、ガーネットは溜め息をついた。
「お父さまに似ちゃったのね、あの子は」





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