<2>
それから幾日か経った頃。
その日も、エメラルドは庭に出て、母がよく歌う歌を歌いながら花の世話をしていた。
花をこよなく愛する母、ガーネット。多忙な彼女はなかなか庭の手入れが出来ない。その代わりにと、エメラルドはほぼ毎日、庭に出ていた。
幾分、日が落ちかけた頃だった。
そろそろ城中へ戻ろうかと思った頃、一人の人影が近づいてきた。
―――誰かしら?
夕日の逆光で顔が見えないので、エメラルドは立ち上がったまま、影の主を待っていた。
やがて、影は彼女からずいぶん離れたところで立ち止まり、
「……失礼いたします、エメラルド姫」
と、騎士風のお辞儀をする。
エメラルドはにっこりと笑いかけた。
「あなただったのですか」
「すみません、驚かせましたか?」
「いいえ。でも、ここからではあなたのお顔がよく見えないから」
エメラルドはウィリアムの側まで近寄った。
「腕のお怪我はもう良くなりました?」
「はい。あの……」
彼はなにやら口ごもった。
「……あの時は、お礼も申し上げず、失礼いたしました」
「あら、お気になさらないでください。元はと言えば、弟が負わせてしまった怪我ですもの」
ウィリアムは頭を振る。
「他のことに気を取られた私が悪いのです」
彼は小さく溜め息をついた。
エメラルドは心配そうにその顔を覗き込む。それに気付いたウィリアムは、慌てたように言った。
「あ、あの、すみません。その、今日はあの時のお礼を申し上げようと思い、参った次第で……」
エメラルドはにっこり笑いかけた。
「お礼を言っていただくほどのことではありませんわ。これからも、弟のこと、お願いします」
エメラルドにお辞儀を返され、ウィリアムはますます慌てふためいた。
「そ、そのようなこと、姫さまが……」
「人として、何かをお願いするときは礼を尽くすのが作法ではありませんか?」
エメラルドは深緑色の瞳をじっと、相手の目に留めて言った。
ウィリアムはその目に射すくめられたように動けずにいたが、やがてかろうじて頷いた。
麗しい笑みを浮かべてから、エメラルドはそろそろ戻ります、と告げ、その場を後にした。
だから、彼女は知らなかった。
彼が、その後もずっとその場に立ちつくしていたのを。
***
ウィリアム・スタイナーは、前の大戦の八英雄の一人、アデルバート・スタイナーとその妻ベアトリクスの三男として生まれた。
父も母も剣豪として名高く、三人の息子も揃って騎士隊に入隊した。
上の二人の兄に比べ、末弟ウィリアムの剣の腕は、並、と言われている。
容姿もなぜか一人母に似て、しかし、母以上に優しい心の持ち主だった。
そんなウィリアムが初めてエメラルド王女を見掛けたのは、彼が十五の時。
プルート隊に仕官したばかりの頃だった。
美しく、麗しい王女は、たちまちに彼の心を捉えてしまった。
「姫さま方は至高の御身。変な気を起こすでないぞ」と、父親に釘を刺されたというのに。
しかし、ウィリアムは確かに父の言いつけを忠実に守った。
つまりは、「変な気」などは一度も起こさなかったのだ。
ただ、その姿を遠くから見ていることだけが、彼の至福の喜びだった。彼女を守るためなら、命をかけることさえ厭わないと思った。
その、至高の姫君が、なぜか突然、剣術の稽古場に現れた。
見ないように見ないようにと思っても、目がいってしまう。
あの方は、弟君をご覧になりに来たのだ。自分とは何も関係ないのだ。
言い聞かせて、平生を装って。
しかし、不意に彼女が笑みを零し、その瞬間、一遍に注意が散った。
ただでさえ、自分は三兄弟の落ちこぼれ。
―――父上は、さぞ自分を煩わしく思っておられるだろう。
そう思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
そして、よもや姫君の前で怪我をするとは。
情けなくて、気落ちして、俯いたまま動けなくなった、その時。
不意に名を呼ばれ、その先にエメラルド王女が立っていて。
自ら白魔法をかけて自分の傷を癒してくれ……。
その後の記憶はぶっつり消えている。
***
ガーネットの部屋。
さっきから、ジタンは腕組みしたまま窓枠に腰をかけ、難しい顔をしていた。
「どうしたの、ジタン?」
妻に呼び掛けられ、彼は閉じていた目を開いた。
「居眠りしてたの?」
「まさか」
冗談を言っても和まない彼の顔を覗き込み、ガーネットは、ねぇ、と話し掛ける。
「なんだい?」
「シドおじさまがね、お手紙をくださったの。縁談のお話を、って」
「縁談?」
難しい顔がますます難しくなる。
「ええ。ご子息のシド十世と、エメラルドの」
「……なんだって?」
彼は立ち上がった。
「で? ダガーはどう思うんだ?」
「そうね……あの、シドおじさまはね。エメラルドがリンドブルムに嫁げば、ダイアンが第一王位継承者になるのだから、戦争に行かずとも非難は浴びなくなるだろうっておっしゃるの」
「だから、行かせるのか?」
「そういうわけじゃないわ」
ガーネットは溜め息をつくと、ジタンの頬に指で触れた。
「そういうわけではないの。シド公子は、とても素晴らしい青年よ。きっと、エミーも幸せになれると思うの。だから―――」
ジタンは、彼女の手を取った。
「じゃぁ、例えば」
彼はじっとガーネットの目を見つめた。
「エミーに好きな男がいても、か?」
ガーネットは目を丸くした。
「まさか―――!」
途端に、ジタンは悪戯っぽくニッと笑う。
「もう、ジタン!」
「ごめん、それは冗談。でも―――」
―――エミーを好きな、男はいる。
困ったな……。
ジタンはふくれっ面になった細君にキスを贈り、何事もなかった素振りをした。
経験からいって、困ったことになりそうだと彼は察していたのだが。
|