<3>



 エメラルドは、ぱっちりと目を覚ました。
 何か、胸騒ぎがする。
 初冬の明け方、寒い中を、彼女はガウンを羽織ってテラスに出る。
 地平線はまだほんのりと明るんでいるだけ。
 風が、彼女の見事な黒髪を掻き回して去っていった。
 額に手をやる。
 角。
 召喚士の血が流れている、自分。
 そして、テラの血も流れている。
 いつも必死だった。どうすれば王女らしく見えるか。どうすれば未来の女王と認められるか。
 自分の血が、追い打ちをかけるように自分を「王女らしさ」に追いつめた。
 花を慈しみ、物腰を柔らかくし、言葉遣いに気をつけ、戦いを好まず。
 全て、自分の本当の姿ではある。
 でも、もっと違う何か―――王女らしさから解放された先にある自分の姿を、自分は探し続けているような気がするのだ。
 どこにいるのだろうか。
 わたしの、わたしらしいわたしは。


 薄い朝の光の中、庭に人影が見えた。
 目を凝らして見てみると、その人は一心に剣を素振りしているのだとわかった。
 ―――まぁ、こんなに朝早くから。熱心な方がいらっしゃるのね。
 エメラルドは、しばらくその様子を見ていた。
 一分の狂いもなく、剣は一定の空間に振り出され、また戻る。勢い良く空気を切る音が、シュッ、シュッ、と聞こえてきた。
 朝日が僅かに煌めき、刀身が反射してキラキラ光る。
 ―――綺麗。
 エメラルドは目を細めた。
 剣が人の命を殺める道具である以上、彼女はどうしても好きになれなかったのだが。
 その人の振るう剣はなぜかとても綺麗で、素直に好きだと思えるような気がした。
 やがて、朝日が本格的に光を放ち。
 影が光に変わってゆき。
 その姿をはっきり見て取ったとき、思わずエメラルドは小さな声を上げた。
 ―――ウィリアム・スタイナー……!
 まさか、彼だったとは!
 次の瞬間、彼女は身を翻し、部屋へ駆け戻った。
 騒ぐ胸を押さえ、彼女はその場に座り込んだ。心臓の鼓動が早鐘のように鳴っている。
 どうしようもないくらい、気が動転して。でも、しっかりとわかる感覚。
 これは、恋だ。
 他の何ものでもなく―――。


***


「―――というわけなのだけれど。どうかしら、エミー」
 その日、ガーネットは娘に、縁談が来ていることを打ち明けた。
 エメラルドは特に驚いた風もなく、取り乱した風でもなかったので、ガーネットは安堵した。
 しかし、彼女の内心は穏やかなわけがなかった。
 心が乱れすぎて、顔に表情が出なかったのだ。
「エミー?」
 優しい母の声に揺り起こされ、エメラルドはぼんやりと母を見た。
「ええ、あの……」
 不意に、胸が激しく痛みを訴え出した。息もつけないほどの痛みに、エメラルドは驚愕した。
 ―――まさか、あれだけで?
 あの姿を見ただけで、ここまであの人を好きになってしまったのかしら……。
 うんん、きっとそうじゃない。
 そう。あの人は、あの時、頷いてくれた。
 わたしが王女としてではなく、人として彼に礼儀を見せたとき……。
 「あなたは一人の人間だ」と、認めてくれた―――。

「びっくりしてしまったかしら、エミー。突然こんな話を聞かされて」
 ガーネットは慈しみ深く娘の髪を撫でた。
「ええ、少し」
 エメラルドは気を取り直し、麗らかに微笑んで答えた。
「でも、なぜわたしが? サフィーではなくて?」
 第一子の自分が嫁いでは、困るのではないだろうか……?
 しかし、次の瞬間、エメラルドは全てを悟ってしまった。
 ……ガーネットの瞳がふっと曇ったせいで。
「サフィーとシド公子は、少し年が離れているから」
 こじつけのような言い訳をして、ガーネットは微笑んだ。
 エメラルドは、心の奥底まで凍るような感覚を覚えた。
 ―――行かなければ……弟のために。
「そうですわね」
 エメラルドはにっこり微笑むと、頷いた。
「わたし、行きます。シド様は何度かお会いしたこともあるけれど、とても素敵な貴公子ですもの。エーコお姉さまやおじさまたちと本当の家族になれるなんて、嬉しいですわ、お母さま」
 その笑顔に、母親はほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとう、エミー。あなたの幸せを心から祈ってるわ」
 しかし、彼女の心は幸せには向かっていなかった。
 そのことを決して母に悟らせまいと、エメラルドは固く決心した。


***


 いつものように、庭で花を手入れしていると。
 不意に、空から雨が零れてきた。
 ―――ああ、空まで泣いているのね。
 エメラルドは悲しく思った。
 ―――でも、わたしは泣いてはいけないのよ。お母さまを苦しめてしまうもの。
 冷たい雨は彼女の心をますます凍えさせた。
 怖い。
 怖くてたまらない。
 わたしは、行かなければならない。弟を犠牲には出来ない。
 両親の苦悩を、少しでも和らげてあげたい。
 行かなければならない。行かなければ……。
 それなのに―――――。
 心は怯えている。苦しんでいる。拒んでいる。自分に正直に生きろと叫んでいる。
 痛い――――寒い……。
「……痛……い……」
 呟いたときだった。
「エメラルド姫!」
 名を呼ばれ、振り向く。
 彼は、そこに立っていた。
「どうされたのですか? こんな雨の中、お風邪を召されます。さぁ、城の中へ……」
 エメラルドは、まるでガラスのような色のない瞳で、彼を見つめた。
「エメラルド様?」
 今まで、ただ必死に彼女を城へ連れ戻さなければと躍起になっていただけだったウィリアムは、その濡れた瞳の無言の訴えにようやく気付いた。
「何かあったのですか?」
 彼は、細い肩を掴み、揺さぶった。
「何かあったのですね?」
 その瞬間、こんな雨の中でも、エメラルドの瞳から涙が零れ落ちるのがわかった。


 彼は、ただ純粋に抱き締めた。
 それが正しいかどうか、そうすることが許されるかどうか、そんなことはどうでもよく。
 ただ、人として、目の前で嘆き悲しむ人を、優しさで包んであげたかった。
 降りしきる雨粒は冷たく、ウィリアムは、エメラルドをかばうように抱き締めた。
 細い肩も、華奢な背中も、濡れた髪の毛も震えていた。
 それは、咽び泣いているせいなのか。
 それとも寒さからなのか。
 それとも、その両方なのだろうか―――――。
 ぎゅっと閉じた瞼の裏にも、彼女の泣き顔が浮かぶ。
 それだけで、苦しかった。
 ……降りしきる雨はますます冷たさを増していく。
 しかし、しばらくするうちに、エメラルドの体は震えから開放されていた。
「暖かい……」
 彼女は小さく囁いた。
 途端に、ウィリアムは、今、自分がどれだけ大それたことをしているか、そこに思い至った。
 しかし、この状況下、彼女を離すわけにもいかない。
「あ、あの、エメラルド姫……」
 彼は、どぎまぎした声で話し掛けた。
「城へ、帰りましょう」
 王女が微かに肯くのがわかった。





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