<4>



 それ以来、エメラルド姫は数日間床に臥せっていた。
 重病ではないか、という噂が流れたり、ただの風邪ではないのかと言う人がいたり。
 ウィリアムは気が気でなかった。


 数日後の、朝方。
 いつものように剣の稽古をしていると、ふいに人の気配を感じた。
 今まで、誰にも会ったことがないこの時間なのに。誰にも会わずに稽古に集中できるからと、この時間から起き出して剣を振るっているのに。
 ウィリアムはがっかりして振り向いた。
 しかし、そのまま、彼は石のように固まった。
「おはようございます、ウィリアム様。今朝も早いのね」
 朝の光よりも清かな声が、彼に語りかけた。
「エ、エメラルド姫……そ、その、お体の方は……?」
 彼は、度肝を抜かれてうまく喋れなかった。
 エメラルドは力ない笑みを浮かべた。
「ええ、もう大丈夫なの」
 そして、ふと表情が曇る。
「まぁ、わたしったら、お稽古のお邪魔よね。ごめんなさい。ただ――――」
 一瞬、どう言ったらいいものかと、彼女は躊躇う表情を浮かべた。
「あの、雨の日のこと」
 その瞬間、ウィリアムは顔を赤くして、一気に捲くし立てた。
「あ、あの時は、その、失礼を働き、申し訳ありませんでした! 私のような身分の者が、よもやあなた様のような高貴な方に……。無礼をお許し下さい。どうぞ、幾重にも罰を受けますゆえ……」
 エメラルドはびっくりした顔でそれを聞いていたが、やがて笑い出した。
「何をそんなに謝ってらっしゃるの? わたし、あなたにお礼を申し上げたかったのよ」
 へ? という顔のウィリアム。
「あなたに優しくしていただいて、心からありがたく思いました。心から―――」
 彼女は目を閉じ、言葉を切った。
 次に目を開けたときには、その瞳は柔らかな色を帯びていた。
「もしお邪魔でなかったら、ここに座ってあなたを見ていてもよろしいかしら?」
 かなり冷たい風が吹いていたので、ウィリアムは困惑した。
「もちろん、私は構いませんが……。しかし、お体に障るのでは……」
 エメラルドはにっこり微笑んで、「体はもう大丈夫よ」と断言した。
 そして、側の切り株に腰を下ろし、飽きもせず素振りの様子を見守っていた。
 やがて、太陽の光が射してくる。アレクサンドリア城の剣塔がいち早く光を放ち始めた。
 突然素振りをやめ、ウィリアムは彼女の側に腰を下ろした。
「寒くはありませんか?」
「ええ、ちっとも」
 エメラルドは答えた。
 数瞬、ウィリアムは黙り込んだ。そして、
「―――お聞きしても、よろしいでしょうか」
「何でしょう?」
 ウィリアムは、再び少しの間黙っていた。
「どうしても気になって、仕方がないことなのです」
 エメラルドは、ほんの少し首を傾げ、続きを促した。
「なぜ、泣いておられたのですか」
 茶色い瞳に真っ直ぐ見つめられ、エメラルドは逃げられない、と感じた。
 逃げられない。
 なのに、とても嬉しい――――。
「すみません。やはり、やめます」
 彼はすぐに目線を逸らし、立ち上がりかけた。
 しかし、彼がすっかり立ち上がってしまう前に、エメラルドは素早く立ち上がり、彼の体に細い腕を回して、後ろから抱き締めた。
 そのため、彼は立ち上がったまま動けなくなった。
 背中に額を押し付け、エメラルドは密やかな声で告げた。
「あなたが、好きです」
 ……しばらくは、小鳥のさえずり以外何も聞こえなかった。
 エメラルドは、広い背中に顔をうずめたまま、じっと待っていた。
 やがて、わずかな身じろぎが伝わった。
 エメラルドは、再び口を開いた。
「こんな気持ち、あなたを困らせるだけでしょうけれど……」
「いえ」
 不意に、強い口調が聞こえた。
「私も、あなたをお慕いしています」
 ウィリアムは、きっぱりと言った。
 思わぬことに、エメラルドはびっくりして腕を放した。
 彼は、ゆっくりと振り向いた。
「私も、あなたが好きです」
 彼はもう一度、確かめるようにゆっくりと呟いた。
 そして、跪いて彼女の手を取り、その甲に口付けを送った。
 びくっとしたエメラルドが一歩後ずさる。
 ウィリアムは、真剣な眼差しで彼女を見つめた。しかし、彼女の目は、明らかに混乱を抱えて怯えていた。
 驚いて、彼は立ち上がった。
「エメラルド姫?」
「ああ、ウィリアム様……」
 彼女は小さな声で呟いた。
「まさか、あなたがわたしを……? そんなことが……」
 そして、頭を左右に振る。
「どうしましょう……まさか、そんなことはないって……わたし―――」
「エメラルド姫?」
 困惑したウィリアムは彼女の目を覗き込んだ。
「―――ウィリアム様」
 彼女は真っ直ぐ、朝日に照らされた緑色の瞳を彼に向けた。
「わたくしは、結婚するのです」
 ウィリアムは一瞬、心臓が止まったかと思った。
 しかし、すぐに気を取り直した。
「おめでとうございます」
 それは、まさに騎士らしい姿だった。
「本心で、そうおっしゃるの……?」
「あなたがお幸せになるのなら、本心から申し上げます」
「そんなはずがないわ!」
 エメラルドは悲痛な声で叫んだ。
「幸せになれるわけないわ。だから、あの雨の日、わたしは泣いていたのですもの」
 瞳から、涙が零れ落ちた。
「わたしは、弟のため、両親のため、この国のためにもシド様に嫁ぐべきなのです。でも、でも、心はあなたを求めて虚ろな世界を彷徨ってばかり。わたしは、王女としてではなく、一人の人間として幸せな一生を送りたいのです―――!」
 崩れ落ちそうになるのを、ウィリアムが手を差し伸べて留めた。
「エメラルド姫……」
 優しく呼び掛け、そして、彼の瞳は瞼に遮られた。
「間もなく、戦になります」
 エメラルドは、意味が掴めず呆然とした。
「一年以内に、霧の三国は協同して、ダゲレオ付近に巣食うモンスターの討伐へ、兵を送り込むことになるでしょう」
 彼は、静かに目を開けた。
「私も、参ります」
 エメラルドは、息を呑んだ。
「そんな……!」
「それが、騎士の定めです」
「ウィリアム様!」
「ひとたび戦地へ赴けば、生きて帰れる保障はありません。だから―――」
 ―――だから、私のことは、忘れてください。








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