<5>



 リンドブルムのシド大公、ヒルダ妃、そして息子のシド公子がアレクサンドリアを訪れたのは、年明け過ぎて十日ほどの頃だった。
 表向き、女王の誕生日を祝うためにやってきた彼らだったが、もう一つの目的には、間もなく行われるモンスター討伐の相談があり。
 そして、シド公子とエメラルド王女の縁談を進めることが、実は最も大きな目的であった。
 終始和やかなムードの中、目的は次々と果たされていき。
 傷心のエメラルドには、心を抉られるような辛さがあった。
 心の痛みは、あの雨の日のものと幾分違うもので、あの日は鋭く激しく痛んだのが、今は重く圧し掛かるように痛むのだった。
 テラスに出て、痛む胸を押さえながら、エメラルドは佇んでいた。


『忘れることなんて出来ないわ―――!』
『忘れてください』
 哀しげに光る、茶色い瞳。
『私のような身分違いの者があなたを愛するなど、身の程知らずだったのです』
『そんなこと言わないで!』
『お幸せになってください、エメラルド姫―――』




 エメラルドは溜め息を吐いた。
 わたしはこのまま、望まない契りを交わすのだろうか―――。
 痛みが痛みを呼ぶように痛む。心が痛い。
 「王女」という身分が結婚するなら、わたしはただの人形に過ぎない―――。
 ……何の言葉だったろうか?
 エメラルドは俯いた。
 目線の先に、人影が映る。
 庭に誰かいる。
 夕日の落ちかけた庭は影になり、よく見えない。
 人影はじっと佇んだまま、一歩も動かなかった。
 そして、しばらくしてから、まるで意を決したようにこちらを見上げた。
 ―――ウィリアム・スタイナー?
 彼は、瞬きもせずにこちらを見上げている。
 エメラルドの胸に、思わぬ感情がこみ上げた。
 ―――どうして、愛する人と一緒にいてはいけないの?
 どうして、幸せになってはいけないの?
 どうして、想いを貫いてはいけないの?
「ウィリアム様!」
 エメラルドは悲鳴のように彼の名を呼ぶと、走り出した。
 ―――誰かに待てと言われようとも、わたしはもう、止まることは出来ないのだ。
 部屋を飛び出し、廊下を走り、階段を駆け降り―――その階段は、随分前にも恋する姫君が駆け降りたものだった―――。
 庭へ走り込むと、彼はまだそこにいた。
 まだ、そこにいた……!
「ウィリアム様……!」
 彼女は走り寄り、首に腕を回して抱きついた。
 彼は、何も言わずに抱き締めてくれた。
「会いたかった―――」
 ウィリアムは、エメラルドを離して顔を覗き込んだ。
「エメラルド姫」
「もう、姫とは呼ばないで」
 涙の滲んだ瞳は、夕日の光で灰色に見える。
「わたしは、王女としてではなく、一人の人間としてあなたを愛したいの、ウィリアム」
 彼は、戸惑った表情を浮かべた。途端に、エメラルドは瞳を曇らせた。
「こんな想いは迷惑かしら……」
「まさか! そんなはずはありません」
 あまりに強く否定するので、エメラルドは泣き出したいと思ったくらいだった。
「お願い。わたしと一緒に逃げてください」
 彼女は、密やかに、しかししっかりと囁いた。
「―――え?」
 茶色い瞳が驚いたように見開かれる。
「わたしが国を出れば、ダイアンは戦地へ行かなくとも済みます。両親も辛い思いをしなくて済む。それに、あなただって……。あなたを失いたくない―――あなたと一緒にいたいの」
「エメラルドひ……」
「姫とは呼ばないで」
 もう一度請われ、ウィリアムははにかんだように目を伏せた。
「私も、あなたと一緒にいたい、エメラルド」


 その瞬間、二人は定めに従い、一つの道を―――彼らが取るべきただ一つの道を、歩むことに決した。
 ―――手を取り合い、逃げよう、と。
 あの、悲しい戯曲の恋人たちのように。


***


 二人は、夜が更けるのを待って城を出た。
 城下町は多少の人出はあるものの、誰もこちらに気付きはしないだろう。
 ウィリアムに手を引かれ、エメラルドは白いマントに身をくるみ、歩いた。
 広場を抜け、町並みを歩き。
 どこまで来た時だったろう。
「待たれよ」
 声を掛けられ、二人は飛び上がらんばかりに驚いた。
 エメラルドは、目深に被ったフードの隙間から、声の主を覗き見る。
 心臓が跳ね上がりそうになり、エメラルドは胸を押さえた。
「おぬし、スタイナーのところのウィリアムではないか?」
 立ちふさがった人物は、かなり冷静な声色でそう尋ねた。
「……はい」
 そして、今度はフードの中を覗き込む。彼女は、驚いたような声で呟いた。
「エメラルド……」
「フライヤおばさま、お願い。見逃してください!」
 エメラルドは必死にせがんだが、フライヤは頷かなかった。
「おぬしたち、これからどうするつもりだったのじゃ」
「わかりません。ただ、こうする他に仕方なかったんです」
 エメラルドは消え入りそうな声で答えた。
「ほう、仕方なかった、か。逃げ出しても何の解決にもならぬじゃろうに」
「ダイアンは戦地に行かずに済みますもの!」
 エメラルドの言葉に、フライヤは眉を上げた。
「おぬし、そのことを知っておったのか?」
 問われて、黙ったまま頷く恋人を庇うように、ウィリアムは前へ進み出た。
「エメラルド姫を城から攫ったのは私です。いくらでも、罰は受けます」
 フライヤは不意に優しい表情になった。
「何も、私はおぬしらを咎めておるわけではない」
 と言うと、エメラルドを見る。
「エメラルド。おぬしは、おぬしの両親が結婚するまでの経緯を聞いたことがあるのではないか?」
 エメラルドは顔を上げた。
「いえ、詳しく伺ったことは……」
 フライヤは、意外そうな顔をした。
「ほう、そうであったか。これは驚いたことじゃ。……ならば、私が掻い摘んで話そうぞ」
 彼女は側の扉を開き、二人を招き入れた。そして一度振り向くと、
「サラマンダー、おぬしは城へ……」
「わかってる」
 闇に紛れた人影が一言だけ残して去っていくのを、二人は驚いて見ていた。
「さ、入るのじゃ。なに、全ては上手くいく。大丈夫じゃ」


***


 フライヤは、二十五年前の大戦の話から始めた。
 出会ったのは、一国の王女と、盗賊。
 たちまちのうちに恋に落ちた盗賊は、しかし、彼女が女王に即位することを知り、その恋を諦めようとした。
「その時、奴はこの酒場でしょぼくれておったものじゃったな」
 フライヤは懐かしそうに目を細めた。
 やがて戦いは終わり。しかし、彼は帰らなかった。
 月日が流れ、それでも王女は盗賊を忘れなかった。
 そして、ある日。
 彼はついに彼女の前に生きて帰ってきた。
 再び巡り会うことのできた恋人たちに、誰もが祝福を贈った。
 ―――しかし。
 やがて、二人の結婚を良く思わない貴族が増えてゆき。
 二人は、再び離ればなれになってしまう。
 それでも、互いを愛する気持ちに変わりはないと約束し合った二人は、やがて立ち上がった多くの人々の力で、ついに永遠の愛を誓うことが叶った。
 二人は、いつまでも一緒だった―――。


「とまぁ、これがおぬしの両親が歩んだ道じゃ」
 フライヤは、黙り込んだ二人を見た。
「じゃからの、エメラルド。おぬしの父も母も、おぬしが恋人と逃げ出したりしたら、ひどく悲しむと私は思うのじゃ」
 エメラルドは頷いた。
「ごめんなさい、おばさま」
「謝る相手なら、私ではないじゃろう。ほれ、もう来たぞ」
 ばんっと扉が開き、駆け込んできたのはジタンだった。
 しばらく扉の前で立ち竦んでいたが、やがてふぅ、と吐息をついた。
「なんだ、まだいるんじゃないか」
「私が引き留めたのでな。サラマンダーはそう言わなかったか?」
 ジタンは迷惑そうな顔をした。
「あいつ、二人が逃げ出した、なんて言うからさ。てっきりもう町を出て行っちゃったのかと思ったんだよ」
 娘の側まで寄ると、彼はその頭に手を置いて、顔を覗き込んだ。
「エミー」
「ごめんなさい、お父さま」
「どうしてこうする前に、言ってくれなかったんだ?」
「だって―――」
 エメラルドは俯いてしまったので、変わりにフライヤが答えてやった。
「エメラルドはの、ダイアンが戦地へ行かなくとも済むようにと、自分の縁談が進んでいることを知っておったのじゃ」
「そうなのか?」
 エメラルドは頷いた。
 途端に、ジタンは天井を仰いだ。大きな溜め息をついてから、再び娘の顔を覗き込む。
「母さんを悲しませたくなかったんだな」
「はい」
「そっか。ごめんな、なんにも知らなくて」
 ジタンは黒髪をくしゃっと撫でてから、隣に立っている騎士の青年に目を向けた。
「お前なぁ……」
「―――罰なら自分が受けます。だから、エメラルド姫は……」
「あ〜、そうじゃなくて。一応言っとくけど。そんな気は全くないからな」
 ウィリアムはじっとジタンを見据えた。
「罰してください。どんな罰でも甘んじて受けます。ご命令ならば、命だって……」
「ウィリアム!」
 エメラルドが叫び声を上げた。
 ジタンはその様子を見ながら、後ろ頭を掻く。
「いや、だから、そんなつもりはないってば。お前ホントに、スタイナーの息子、って感じだよなぁ」
 フライヤがふっと笑みを漏らした。
「よいではないか。おぬしとて、覚えのないことでもなかろう。許してやれば」
「別にいいけどさぁ……」
 あまり嬉しくなさそうなジタン。
「とりあえず、親に許しもなく連れ去るっていうのは……オレもやったけど、どうかと思うわけでさぁ」
「全く説得力がないのう」
 と、フライヤ。
「うるさいな! あれとこれとじゃ、ワケが違うだろ、ワケが!」
「ほう、おぬしの行動に大層なわけがあるとも思えんがの」
 その時、今度はサラマンダーが酒場の扉を開いた。
「何やってんだ、お前ら。そんなところでぐだぐだ言ってないで城へ戻れ。心配してたぞ、ジタン」
 とだけ言うと、自分はさっさと出ていく。
「やべっ、そうだった。エミー、早く城へ戻ろう。母さんが心配してる」
「でも……」
 口ごもると、エメラルドはぎゅっと拳を握りしめた。
「バカだなぁ。好きなんだろ? 誰が引き離したりするもんか。オレも母さんも、それでは随分と苦労したんだぜ」
 エメラルドは小さく頷いた。
「おお、そうじゃ。おぬしもダガーもあまり詳しく話しておらんようじゃったから、私がおぬしたちの恋路を順に説明しておいてやったぞ」
 フライヤは不敵な笑みを浮かべた。
「な……! 余計なことするなよ!」
「なぜ話さんかったのじゃ? 自分のこととなると照れくさいのかのう」
「う、うるさいな!」
「さ、エメラルドもウィリアムも。こやつのことは放っておいて、早うダガーの元へ参ろうぞ」
「ちょっと待て、フライヤ! このネズミ女―――っ!」
「……いつまでたっても子供じゃのう、おぬしの父は」
「―――はい」
 エメラルドは父親に聞こえないように小声で返事した。
 フライヤが爆発的な笑い声を上げたのはその直後であった。





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