<11>



 ぱっちりと目を開き、サファイアは寝台から起き上がった。
 眠れない。
 ―――あれからずっと、あまりよく眠れない。
 窓を開け、暖かくなった夜風を浴びてみる。
 月が綺麗だ。
 自然と、口唇から歌の一節が出てくる。
 母がよく歌ってくれた歌。
 知らないうちに、目から頬を伝って涙が零れた。
 あたしは何を泣くのだろう。
 ついに、最後の一押し突き放してしまった、彼のことを想って泣いているのだろうか?
 でも、あたしは―――。
 涙で歪んだ月が悲しかった。
 必死に我慢していた嗚咽が心臓を揺さぶって飛び出そうとする。
 しゃがみ込んで、耐えた。
 しかし、次の瞬間彼女は驚いて顔を上げた。
「お、お母さま―――」
 肩に回された白い腕が、月に照らされて光る。
「大丈夫、サフィー?」
 ぎゅっと抱き寄せられ、サファイアは母の胸に顔を埋めた。
 ガーネットはまだ幼さの残るその背中を、ゆっくり撫でてやった。
「泣いていいのよ。ほら、こうしてずっと抱いていてあげるから」
 しかし、サファイアは素直に泣けなかった。
「サフィー?」
 ガーネットは一度娘を引き離し、顔を覗き込んだ。
「お母さま、休まなくていいの? 明日も忙しいのでしょう?」
 頬は微かに涙に濡れていたが、気丈そうな青い瞳はもう濡れていなかった。
「サフィー……」
 ガーネットはもう一度抱き締めた。
「仕事なんてどうでもいいのよ。あなたの方が大事だもの」
「あたしは大丈夫よ」
「そうは思えないわ」
 サファイアは黙った。
 長い沈黙が続いたが、ガーネットもまた黙ったままだった。
 やがて、娘は静かに口を開いた。
「お母さま」
「なぁに?」
「あたし、ずっとお母さまの娘でもいい?」
 ガーネットは意味がわからず一瞬押し黙った。
「ええ、もちろんよ。当たり前じゃない。あなたはずっとわたしの娘よ」
「そうじゃないの」
 サファイアは母親から離れると、首を振った。
「あたし、ずっとお母さまの娘でだけいたいの。他の誰の、何にもなりたくないの」
 その時、ガーネットの胸には二つの思いが交差した。
 ―――あどけない子供の大人になりたくないというメッセージか?
 ―――心に抱える闇から生まれた悲鳴のような言葉か?
「その……サファイア。いつかは誰か好きな人と結婚して、新しい家庭を築くことになると思うのよ」
 ガーネットの言葉に、サファイアは首を振った。
「あたしは、お母さまの娘でいたい」
 ―――前者か、後者か?
 サファイアは揺れている母親の胸に、再び顔を埋めた。
「このまま眠ってしまってもいい?」
「え? ―――あ、ええ。いいわよ、もちろん」
「あたしをベッドに運ぶんじゃ、お母さまには重すぎるかも知れないわね」
 サファイアはクスクスと笑うと、目を閉じて静かになった。
 細い肩を抱いてやりながら、ガーネットはまだ揺れていた。
 ―――この子はどこまで父親に似ているのだろう。
 自分の心を誰にも覗かせない。
 一人で全て抱え込んで、一人で何とかしようとする。
 ―――ジタン。あなたならこの子の心の闇がわかるのかしら。
 わたしにはどうしても見えない……。
「呼んだ?」
 暗がりから出てきた夫の姿に、ガーネットは一瞬ぎょっとした。
 次に、手を口に持っていって赤くなる。
「うそ、今喋っていた?」
「うんん」
「……?」
「呼ばれたような気がしただけ」
 ジタンはふざけたように笑った。
「もう、ジタンった――――」
「しぃ―――」
 人差し指をガーネットの口元に持っていくと、ジタンはスヤスヤ眠る娘の顔を覗き込んだ。
「よく寝てる。やっぱり安心するんだな」
 と言って、にっこり微笑んだ。
「ねぇ、ジタン」
 ガーネットは思い切って尋ねてみることにした。
「ん? なんだい?」
「あの……サファイアは、何か一人で抱え込んでいるのではないかしら」
「―――そう思う?」
「ええ」
「実は、オレも思う」
「……やっぱり?」
「うん―――」
 考え込んだ横顔を、月が照らした。
 ジタンはしばらく、そのまま固まったように動かなかった。
 やがて立ち上がると、ベッドから薄い夜着を持ってきて、眠る姫君に掛けてやった。
「たぶん、オレたちには救えない類のものかも知れない」
 静かに言った。
「―――なぜ?」
 親は絶対の存在として育ったガーネットは、不思議そうに、幾分非難がましく尋ねた。
「なんとなくさ。他者に受け入れて欲しいと思ったら、家族じゃだめだろう?」
 ガーネットは瞬きした。
「他者―――?」
「つまりは……社会、かな。隔離された城じゃなくて、普通の人が暮らす普通の社会」
 ガーネットは何となく思い当たる節があって頷いた。
 ―――自分にもそんな時があったかも知れない。
「大人になろうとしているのかもな」
 ジタンは呟いた。
「みんな一度は通る道なんだろうけど、サフィーの道は、人より少し険しいのかも知れない」
 ガーネットはなぜかと問わなかった。
 何となく、そこにある闇を垣間見たように思った。
 ―――二つの月。
 例えれば、そんな光のような、闇だ。





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