<5>



 まるで、水の中を漂っているような感覚だった。そのふわふわとした浮遊感には似つかわしくない程、身体は指先まで重たくて、とても動かす気にはなれなかった。
 ジタンは、ぼんやりと目を開けた。どうして目を開けられたのか、彼には全くわからなかった。そんなつもりはなかったし、そうしたいとも思わなかったのに。
「ジタン」
 遠いところで誰かが自分を呼んだ気がした。
「ジタン、目を覚ましなさい」
 どこかで聞いたことのある声だと思った。とても懐かしくて、とても暖かで、とても大切な……。
 ジタンははっとして、目を大きく見開いた。
 その人は、上からじっと彼を見ていた。ジタンが思い描いた相手ととてもよく似ていたが、しかしそれより随分と年を取っているように見えた。
「あ……」
 そして、ジタンはその人を知っていた。
「わたしが誰だかわかる?」
 優しい鈍色の瞳を微笑ませて、彼女はそう尋ねた。
「わたしは、あなたのおばあさまよ」
 ジタンはのろのろと起き上がった。彼の祖母は背中に手を回してそれを手伝ってくれた。
「どうして……」
 ジタンはもう一度その人を見た。間違いなかった、肖像画で見た彼の祖母と同じだった。
「あなたがここまで飛ばされてきてしまったのよ」
「ここは……?」
 彼は辺りを見回した。しかし、ゆらゆらと空間が歪みながら玉虫色に光るばかりで、一体どこなのか見当もつかなかった。
「ここは、クリスタルが記憶を司っている場所よ。魂はここでクリスタルに記憶を預けて、また旅立っていくの。あなたの魂も、この場所に記憶を預けて、また旅立ってあなたに宿ったのよ」
 と、そこまで説明すると、祖母は後ろを振り返った。
「もう、いつまで隠れているつもりなの?」
 ジタンもそちらを見た。歪んだ空間の向こうから、ひょこっと金髪頭が現れた。
 その人を一目見て、ジタンは息を呑んだ。
「よぉ」
 と、彼にそっくりのその人は、右手を上げて笑った。
「いやぁ、ホントに似てるんだな」
 呆然としている少年の顔を、その人は屈んで覗き込んだ。
「まるで昔の自分を見てるみたいだ」
 祖母がクスクスと笑った。
「あんたは……」
 ジタンは、やっとのことで小さく呟いた。
「おいおい、自分のじいさんに向かって『あんた』はないだろ?」
「だって……!」
 そうだ、彼らがここにいるということは、自分は死んだということなのではないのか?
 決して会うはずのなかった、自分にそっくりの『祖父』が現れたことで、ジタンは急激に現実感を取り戻した。
 やっぱり死んでしまったのだろうか? ミコトはずっとそのことを心配していた。
「お前は、まだ死んじゃいないさ」
 祖父はニッと笑った。
「お前には帰らなきゃならない場所があるんだろう?」
「そうよ」
 祖母が同調した。
「あの子を一人にしてはダメよ」
「でも……」
 ジタンは立ち上がった。ゆらゆらと揺らめく空間の歪みがどこまでも続いていて、出口も入り口も何も見えなかった。遠近感まで狂ってくる。
「どうやって帰れば……?」
「願うんだ」
 祖父も立ち上がった。
「生きたいと願うんだよ」
「生きたいと……」
「そして、帰ろうとするんだ」
「帰ろうと?」
「そう。いつか帰るところに、帰るんだ」
「いつか帰るところ……」
 ジタンの胸に、「必ず帰ってきて!」と叫んだガーネットの顔が浮かんだ。どうしようもなく、帰りたいという思いが強くなる。

 そうだ、必ず帰ると約束したんだ……!

「信じるんだ」
 ジタンの頭に、祖父は手を乗せた。
「そう。信じれば願いは叶うのよ」
 祖母がそっと、彼の両頬を手のひらで包んだ。それは、子供の頃母がしてくれたように、暖かで慈愛に満ちた仕草だった。
「行きなさい、ジタン。あなたの帰るべき場所へ帰るのよ」






「ほら、上手くいっただろ」
 ジタンは得意げに鼻の下を指で擦った。彼の孫は青い光に包まれて、もう小さな点のようになっていた。
「まぁ、呆れた。そんな風にしてると、あの子よりも子供に見えるわよ」
「げっ、ひどいなダガー」
 ジタンはケラケラと愉快そうに笑った。
「でも、よかった。もしあのまま引きずり込まれてしまったら、どうしようかと思ったわ」
 ガーネットはほっとしたように胸元を手で押さえていた。
 ジタンは「うーん」と唸り声を上げた。
「たぶんだけどさ」
「なぁに?」
 心から純粋そうに見上げられて、ジタンはちょっとだけからかいたくなった。
「ほら、オレの人徳じゃない?」
「どうして」
「前世の行いがよかったとか」
「まさか」
「頑固で猛進で、世間知らずなお姫さまの面倒も看たわけだし」
「ジタン」
 ガーネットの声色は冷たくなった。
「冗談だよ、怒るなって」
「怒ってません」
「怒ってるじゃん」
「怒ってなどおりません」
 うげっ……、と呟くと、ジタンは後頭を掻いた。機嫌が悪くなると丁寧語になるのは、この場所に記憶を預けた後も変わらないのだ。
「まぁ、真面目な話をすれば」
 ジタンはのんびりと歩を進めた。そこはアレクサンドリアの街によく似ていた。その場所は、それぞれの記憶に強く残っている風景をいつも映し出していた。そういう場所だった。
「クジャ、かもな」
「クジャ?」
 ジタンは頷いた。
「クリスタルが融合して、あいつもこっちに来てるはずだよ」
 ガーネットが目を瞠った。
「そういえばそうよね……!」
「あいつが来るんじゃ、これから騒がしくなりそうだな〜」
 参った参ったと、ジタンは頭の後ろで腕を組んで空を見上げた。


 空は、今日も真っ青に澄み渡っていた。






-第九章終わり-






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