<3>



 階段の手摺に凭れ、紫紺色の髪に翡翠色の瞳の少女がこちらを見ていた。
 客間を出てすぐのところで少女と目の合ったガーネットは、ふと立ち止まった。
 少女の額からは、前髪を押し退けて小さな角が覗いていた。
 ―――ひどく引っかかる感覚が、彼女の胸を翳めた。
「よぉ、ちびエーコ」
 ジタンが親しげに声をかける。
「ちびちびってうるさいのだわ、ジタン! あたしはもう、子供じゃないのよ」
「はぁ? どこからどう見たって子供だぜ」
 彼女はぴょんっとひとっ飛び、二人の目の前までやってくる。
「そういうこと言ってるとね、おばあちゃまから預かった大陸地図、あげないのだわ」
 と、右手でひらひらと古い紙片を示した。
「大陸地図なんて本屋で買えるじゃん」
「ところがどうよ、あなたたち歩いて外側の大陸まで行くって言うじゃない。市販の地図ではフォッシル・ルーの記載、三十年前に廃止されてるのよ」
 小さなエーコは妙に大人びたものの言い方で指摘した。
「さぁ、観念なさい、ジタン」
「……はいはい」
「返事は一度で結構」
 そう言って、ガーネットの方へと悪戯っぽく目配せした。そして、
「ねぇ、表で仁王立ちしてるおじさんは、あなたのお友達?」
 思い出したように尋ねる。
「スタイナーのこと?」
「さぁ、名前までは知らないわ。さっきエーコのことうるさい小娘呼ばわりしたけど、ちょっと失礼な方じゃない?」
「まぁ……ごめんなさい。頭の固い人なの」
 ガーネットが心からすまなそうに謝ったので、エーコの機嫌はすぐに直った。
「あなたが、ダガーね? 初めまして。エーコよ」
 エーコは幾分背伸びして、お辞儀した。
「エーコ、あなたに興味深々だわ。アレクサンドリアから来たっていうのは本当?」
「ええ、そうよ」
「それで、外側の大陸まで歩くんでしょう?」
「ええ」
「決めた! エーコ、あなたたちに付いて行くわ!」
「―――はい?」
 と、驚愕の合いの手を入れたのはガーネットでなく、ジタン。
「ダメだダメだ、エーコのオバハンに殺されるだろ、オレが!」
「あんたがどうなったってあたしは知らないわ」
「お前な、去年黙って屋敷抜け出して劇場街まで遊びに来たとき、どうなったか覚えてるだろ?」
「そんな昔のこと、忘れたのだわ」
「あのなぁ!」
「あら、エーコを連れて行くのはイヤだって言うの? なら、この地図は灰になるのみね」
 再び地図をひらひら。
「―――なんでちびに預けるんだよ、あのオバハン」
 と、ジタンは恨めしげに呟いた。
 そんなやり取りを間に立った形で交互に見比べていたガーネットは、背後で誰かが忍び笑いするのを聞いて振り向いた。
 老公女のエーコが、クスクスと笑い声を漏らしていた。
「あんた、たった六つのその子にも勝てないの?」
「オバハンの育て方がおかしいんだろうが。何でこいつこんなに口が立つんだよ」
「あら、あたしの孫だもの、仕方ないわよねぇ」
 同じ名の祖母と孫は、揃って笑った。
「この子はね、ガーネット姫。早くに両親を亡くしたものだから、ほとんど生まれたときからあたしが育ててるのよ。あたしと同じ、召喚士の血を受け継いでるわ」
「まぁ、あなたも……?」
「そういえば、ガーネット姫も召喚魔法を使うのだったわね」
 と、エーコ老公女。


 ―――角。


 それは、召喚士であるガーネットの母エメラルド女王の額にも、目の前に立つエーコ老公女の額にも生えている、召喚士の証だった。
 しかし、同じくして召喚士であるはずのガーネットの額には、生まれたときから角はなかった。
 小さなエーコは「角がないのに、どうやって召喚獣とお話しするの?」と尋ねたが、ガーネットに答えを見つけることは出来なかった。
 召喚獣を呼んだことはない。
 そんな必要は、今まで一度もなかった。
「ああ、それでね、ジタン。外側の大陸に行くならこの子も一緒に連れて行ってあげて欲しいのだわ。マダイン・サリという村が大陸の北側の孤島にあるから……ほら、この子が持ってる地図に」
 と、古い地図の一部分を指差し、「ほら、ここよ」と示した。
「何だよ、マダイン・サリって」
「あたしの生まれ故郷だわ」
「エーコ、こんなトコで生まれたのかよ!」
 それもそのはず、外側の大陸という未開の地でさらに北側といったら、何もない荒野と言って差し支えないほどなのだから。
 それでも、彼女がリンドブルムへ来るまでの間、そこには確かに村が存在したのだった。
「一度ね、召喚壁を見せてあげたいって思ってたんだけど。ほら、国がこんな状況だし、シドの面倒も見なきゃならないでしょう。あなたがタイミングよく行くことになったから、丁度よかったわ」
 リンドブルムは現在、貴族制の続行を求める貴族と民主制移行を求める民衆との間で対立が起き、ただならぬ雰囲気にあった。
 その上、シド十世が逝去した後大公の位に就いたのは、まだ年若い息子のシド十一世。
 否が応にも、大戦から五十年経った今をもって民衆から人気の高い八英雄の一人、伯母のエーコが政治に手を携えねばならない状況だった。
「で、秘蔵っ子をオレなんかに任せていいわけ?」
「あら、あなた一人に大事な孫娘を任せるほど、あたしもバカじゃぁないわよ」
 エーコはにっこり笑った。
「あなたも仲良しのトカゲ君に、一緒に行ってくれるように頼んであるわ。なんたってジタン、あなた放っておくと何をするかわからないじゃないの。心配で心配で、あなたのお母さん夜もおちおち眠れなくなっちゃうものね。まぁ、彼があなたの監視役になるのかどうかも不明だけど」
 すでに反論の威勢も失せたジタンは、はぁ、と溜め息をついた。
「で、来るのか、サラマンダーも」
「そういうことよ!」
 と返事したのは祖母ではなく、孫の方のエーコだった。



***



 若人たちの去った部屋で、バンスはエーコにそっと尋ねた。
「いいのかい? まだ小さなあの子を荒野に放り出して」
 老公女はふっと微笑んだ。
「きっと、あの子だって何かの役に立つと思うのよ。かつてのあたしがそうだったようにね」
 六つだって、立派に戦えるのだわ、と。
 エーコは目を細めた。
「いつかは乗り越えねばならない壁なんでしょうね。エーコも、ガーネットも……ジタンも」
「辛いだろうね」
 ふぅ、と、バンスは眉間に手を当てた。
「それでも……例えどんなに辛くても、いつかは本当の自分を知らなければならない時が来るのだわ」
 そう、あの時と同じように。



 エーコは祈っていた。
 あの時と同じように、彼にも支えてくれる仲間があるように、と。
 そして。
 あの時と同じように、一人も欠けることなくこの星へ戻ってこられるように、と。



 ……彼女の胸に、一抹の不安が過ぎらないわけでもなかった―――けれど。








 ずっとずっと、

 こうして、飛んでいくあの鳥たちをただ見ているの。

 雲と雲の間を、その影を、滑るように飛んで

 そして、空へと昇っていく―――




 わたしはその羽に、記憶や夢を預けた。

 過去が過ぎ去った今、

 未来を受け入れなければならない。




 わたしは歌う。

 あの歌を。

 羽ばたく鳥たちよりずっと遠く、空の彼方。

 永遠にあなたの傍で、わたしの歌声が響くように……と。










-第二章終わり-






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