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「疲れたでしょう? 遠征は初めてだものね、ダイアン」
「私がいない間に、何か変わったことは? 姉上」
ダイアンは、テーブルの上に無造作に置かれた姉の本をぱらぱらとめくり、パタンと閉じた。
「またこんなに分厚いのを読んでるんですか?」
エメラルドは曖昧な笑みを浮かべ、頷いた。
「『兵法と戦略』。姉上が読まれるような本ではないですね」
「でもね。落ち着かないのよ、何をしていても。あなたがどうしているか、毎日毎日気がかりで気がかりで……」
ダイアンはふふ、と笑った。
「気がかりなのは『兄上』のことでしょう?」
「―――ダイアン!」
彼女は色々な意味で非難めいた声を上げた。
「ウィリアムには感謝してます。よく助けてもらったから」
ダイアンは目を細めて微笑んだ。
その表情に、エメラルドは胸を痛めた。
いつから、弟はこんな表情をするようになったのだろう?
戦に行ったから?
―――いや、その前から、もうずっと前から、彼は彼独自の視点から、全てを見透かし、全てを……諦めて生きていたのかもしれない。
どうして?
どうして誰も、彼を暗闇から救うことができないのだろう?
捕まえようとすればするほど、あの子はするすると逃げて行ってしまう。
まるで、影のように……
***
「ダイ!」
父の良く通る声に、息子はふっと夢想から醒め、振り向いた。
「よぉ、ご苦労だったな」
「父上も、お変わりなく」
ジタンはぷっと吹き出した。
「お前さ、スタイナーんとこの三兄弟と一緒に行動してたら、そんな言葉遣いまで伝染っちまったのか?」
「まさか」
ダイアンは笑った。
「で、さ。帰って早々悪いんだけど。ちょっと話があるんだ」
父親の言葉に、ダイアンは何事かと小首を傾げる。
「お前に嫁さんでもどうかと思ってさ」
ジタンはごく軽い口調で言った。
が、ダイアンはあっという間に険しい表情になった。
「父上。前々から申し上げているように、私は誰とも結婚する気はありません」
「お前さぁ。堅物みたいなことばっかり言わないで、ちっとは親を喜ばそうとか思わないわけ?」
「思いません」
息子は見事にキッパリと言い切った。
「あ〜、わかった。百歩譲ってオレはいい。母さんのことくらいは喜ばせてやれよ、な? 母親ってのはさ、息子の嫁さんの顔を見るのが一番嬉しいんだって」
ダイアンは床に目線を落とした。
母を必要以上に心配させるのは嫌だった。
自分が戦場へ赴く日の、苦渋に満ちたあの表情が浮かぶ。
彼女はそういったことを家臣に悟らせたくはなかったのだろう、「ご子息が戦場へ行くというのに、なんと凛としたお姿か」と誰かが感嘆していた。
嘘だ。あんなに苦しげな母上のお顔を、見たことがない。
―――父上が戦場へ向かった日以外には、一度も。
ダイアンは、ゆっくりと顔を上げた。
「申し訳ありませんが」
じっと父の顔を見る。
「私は、誰とも結婚しません。例え母上の望みでも、これだけはご容赦下さい」
「ダイ」
ジタンが窘める言葉を口にする前に、ダイアンはきっぱりと言った。
「私は誰かを、不安と緊張の中で待たせるようなことしたくはないのです。……母上のように」
じっと見つめる息子の目から、父親は珍しく、気まずそうにふっと目線を外した。
「臆病者なんです、私は」
ダイアンは淡く笑み、足早に自室へ去っていった。
父はその背を見つめながら、小さくため息をついた。
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