<7>



 ガツン、と左頬に衝撃を受けて、ダイアンはようやく目を覚ました。
 目の前の青い瞳は怒りに燃えていた。
「何してるんだ」
 ようやく痛みを思い出して、ダイアンは左頬を抑えた。
「父上……?」
 きょとんと、はしばみ色の瞳は父を眺めた。
「ダイアン」
 初めて手を上げた割りに、父は落ち着いた声色で息子を呼んだ。
「誤解です、父上」
 初めて殴られた息子もまた、落ち着いた声色でそう告げた。
「ダイアン!」
「誤解です」
 ジタンはたまらなくなって、息子を抱き寄せた。
 大きな強い手が、彼の髪をさっきの激しい風以上に激しくかき混ぜる。
 ダイアンは目を閉じた。
 こんな風に抱きしめられるのはいつ以来だろう?
 小さい時は、おんぶだ抱っこだ肩車だと、随分まとわり付いた覚えがある。
 いつから、甘えることを忘れてしまったのだろう?
 ―――大人になるのは、切ないことなんだ。
「ダイ」
 掠れた父の呼び声は切ない。
「死ぬな」
 死ぬはずないでしょう?
「生きろ」
「父上」
「お前は、まだこの世界がどれだけ素晴らしいものなのか、ちゃんと見てない」
 ちゃんと、見えてます。
 あなたの息子として生まれたときから、この世の素晴らしさを見ない日はなかった。
「オレは、生きることの素晴らしさを、お前にまだちゃんと伝えてない」
 伝わってます、父上。
 あなたがこの世に生きることを、どれだけ嬉しく思っているか。
「行かせなければよかった……」
「父上」
「お前をどこにも行かせなければよかった」
 どこにも、が「戦へ」ということは明白だった。
「父上」
 ダイアンは父から離れた。
「後悔されるのですか?」
 ジタンは顔を背けたまま、肯定も否定も口にしなかった。
「私が戦へ行ったことは、父上や母上を後悔させているのですか? なら、私は何のために戦へ行ったのですか?」
 ジタンはぎゅっと目を瞑った。
「せめて、戦へ行かせてよかったと思ってはいただけないのでしょうか?」
「ダイ」
 ようやく青い目は……ひどく苦しみに満ちた優しい瞳は、息子を捉えた。
「すまん。オレは、そういう風には思えない」
 ダイアンは、瞬きさえせずに父の顔を見つめた。
「オレには、『国のため』『国民のため』とか、そういう考えはできない。オレは、国よりも何よりも、お前が大事だ」
 ずっと小さかったころ。
 国のために働く母と、自分のために生きる父に、恨めしい気持ちを覚えていた。
 両親の愛情に嘘がないことは子供心にも感じていたけれど。
 父も母も、自分の話を聞いてくれるほどには暇ではなかったから。
 いつも一人で解決した。
 怖い夢を見た時も。
 ひどい雨降りにあった時も。
 飼っていた子犬が冷たくなっていく時も。
 諦めて傍観して、それで楽になった。
 だから、両親が忙しさにかまけて自分を通り過ぎていったとしても、辛くはないと思った。
 父も母も、面と向かって「何よりもお前が大事だ」とは言わなかったけれど。
 知っていたから、言われなくてもよかった。
「ダイアン」
 父は一変して、優しく名を呼んだ。
「当たり前だろう、わからなかったのか?」
 ダイアンは頭を振った。
 知っていた。自分はちゃんとわかっていた。
 なのに、どこかで駄々っ子のように憤っていた。
 大人になった振りをして、本当は―――
 父のため息に顔を上げると、彼は困ったように笑った。
「大きくなったと思ったけど、まだまだ子供だな」
 そう言って、くしゃっと頭を撫でる。
「子供が、背伸びなんてするもんじゃない」
「はい」
「もっと真っ直ぐになれ。子供はひねくれたことなんて考えなくていいんだ」
「はい」
 グスッと鼻を鳴らすと、父は笑いながら顔をごしごし拭いてくれた。
「お前なぁ、こんなに泣いたら男前が台無しだぞ?」
 父がハンカチなどという洒落たものを持っているわけもなく、服の袖でガシガシと床でも磨く勢いで涙を拭われる。
「……父上、痛いです」
「痛いくらいがちょうどいい」
 意味のわからないことを言いながら。
 でも、ダイアンにはわかっていた。父がどんなに心配していたか。
 自分が戦へ行って、心がささくれて、世界を斜に見るようになって。
 親に「何よりも大事だ」と言われて泣き出してしまうほどの純真さが、まだ息子の胸に存在していたことに彼は安心したのだ。
 だからダイアンは、後は不満も言わず、ただなされるがままじっとしていた。
 冷たい風がこれでもかと言うほどに、二人にぶつかって砕けていった。









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