<9>
ダイアンはテラスからアレクサンドリアの街を見下ろした。
やっと熱も下がったし、今日からはまた剣の稽古に行かれるだろう。
稽古仲間の義兄は姉と共に、昨夜見舞いに来てくれた。
彼は、
「王子がいらっしゃらないと、稽古にも活気がなくて」
と笑っていた。
それで、明日明後日には顔を出すと約束したのだ。
姉は「無理をしないで、もう少し休まなければ」と心配し、「あなたが余計なことを言うから!」と夫に向けて顔をしかめた。
すっかり尻に敷かれている義兄の様子には、思わず笑いを誘われてしまった。
それから、入れ替わりで父も見舞いに来てくれた。
「お前が風邪を引いたのはオレのせいだって、母さんにこっぴどく叱られちゃったぜ」
と言って、後頭を掻いていた。
―――そういえば、父も随分と尻に敷かれている。
「うちって、そういう家系なのかな」
こっそり呟いて忍び笑いをした。
行かなければ。
自分が寝込んでから、一度も様子を見に来なかった母のところへ。
逃げてはならない。母を悲しませたとしても、自分は決めた道を行かねばならない。
いつまでも人に左右されていてはならない。
自分は、自分でしか在り得ないのだから。
失礼します、と一言言って、ダイアンは戸を開けた。
母は起きたばかりの格好で、化粧鏡の前に座っていた。
その顔が、一瞬あまりに老け込んだように見えて、ダイアンはギクリとして立ち止まった。
「ダイアン。体はもういいの?」
母は、いつも通り優しく微笑んだ。
「はい。ご心配をお掛けしました」
「いけないお父さまね。あなたを寒空で何時間も」
その父は、いまだ寝室でぐぅぐぅ眠っていた。
「お座りなさい。どうしたの?」
「すみません、朝早くから」
ガーネットは小首を傾げ――それが少女時代からの癖であることを、ダイアンは知らなかった――、「いいのよ、親子じゃないの」と微笑った。
ダイアンは一度両親のダイニングテーブルに腰掛けたが、再び立ち上がった。
「母上」
ひどく畏まって呼ぶ。
「なぁに?」
「私は、結婚する気はありません」
ダイアンは真っ直ぐに伝えた。
正攻法以外、彼は知らなかった。
母はしばらく息子の顔を眺めていたが、やがて「そう」と頷いた。
「いいわよ」
あっさりと、彼女は言った。
「……いいんですか?」
「いいわよ、したくないならしなくていいわ。あなたの人生ですもの」
「なら……」
なぜ、あんなに一生懸命見合いを薦めたりしたんだろう?
意気込みが空振りして、ダイアンは力が抜けたように椅子に座った。
「でもね、ダイアン。好きな人と結婚するのは素敵なことよ。大変なこともあるし、悲しいこともあるけれど、でも、それに勝るだけの楽しいことや嬉しいこともある。平らな道を歩くのはつまらない人生でしょう?」
母は、穏やかな声でそう語った。
「わたしにそれを教えてくれたのは、ジタンだったわ」
ダイアンは、はっと顔を上げた。
父はよく、子供に話す時も母を名で呼んだり、「愛してる」だの「大好きだ」だのと恥ずかしげもなく口にしたりした。
でも、母は決して父の名を呼んだりしなかった。
子に対しては、母はいつも「母親」だったのだ。
「そして、あなたたちが生まれて……ねぇ、ダイアン。あなたは家族が嫌い? そうではないと信じたいけれど」
「そんなはずがありません」
ダイアンは力を込めて否定した。
確かに、自分は家族が好きだった。
「あなたにも家族を持ってもらいたいと思ったのは、わたしが幸せだからよ」
母は立ち上がった。
立ち上がり、息子の傍らへ歩み寄った。
ダイアンは、座ったまま母を見上げた。
いつから、彼女はこんなに寂しそうな目をしているんだろう。
覚えている限り、母の目はいつも喜びに満ち満ちていたのに。
「あなたはFail(失敗)ではないのよ」
ガーネットは、ダイアンの両頬を手で挟みこむと、静かにそう言った。
ダイアンは、思わず目を見開いた。
「あなたの名は、古典の言葉で『幸福』という意味なの。あなたが生まれた朝があんまり綺麗だったから、お父さまがこんな幸せな日はないって、そう付けたのよ」
「幸福……?」
ダイアンは呆然となって母を見つめた。
俄かには信じられなかった。
「お父さまもわたしも、あなたには誰よりも幸せになって欲しいと思ったわ。うんん、幸せを掴んで欲しいと……自分の力で幸福を手にすることができるような、そんな子に育って欲しいって思ったの」
唐突に、母の目から涙が溢れ出した。
「それなのに、わたしはあなたを傷つけたわ。どうしてあなたを戦へなんか……」
「母上……」
ダイアンは立ち上がって、泣き崩れる母を支えた。
「あなたが苦しむのはわかっていたのに、わたしは止めることができなかったわ。なんて……なんて自分勝手な!」
「そんなことは!」
「自分の身を守ることばかり考えて、息子の人生を踏みにじって……もう、嫌よ」
嫌よ、とガーネットは繰り返した。
母上、とダイアンは呼び続けた。
それ以外、何もできなかった―――自分が戦地へ赴く日、何もできなかった母と同じように。
どれだけ痛かったことだろう。死へ向かう息子を見送るのは。
「母上―――!」
床に膝をついて、ダイアンは蹲った母の背を抱いた。
何よりも苦しかった。母を苦しめることが、何よりも。
でも、彼女が苦しまないわけがなかったのだ。
だから、ダイアンは見ないことにした。
何もかもから目を逸らし、何もかもが遠い情景だと決めて。
そして、やっと楽になったと息を継いで、一人になったことに気付いて。
自分で一人になったのに、人のせいにしたら楽だったから。
「母上」
自分は悪くないと、逃げた。
自分は悲しくないと、逃げた。
逃げて、逃げて、逃げて。
辿り着いたのは何もない場所で、寒くも暑くもない場所で。
楽だったから、寂しさを紛らわせてそこに座った。
楽だったから。
いつの間にか、暖かい両腕に抱き締められていたのは自分だった。
震える唇から、独りでに嗚咽の声が洩れる。
父の前とは訳が違い、少し恥ずかしかった、けど。
涙は止まることなく零れ続けた。
母の細い指が、そっと背を撫でてくれた。
子供のころと同じように、そっと、そっと。
優しく名を呼ばれるだけで、心のどこかが反応したようにまた涙が溢れ出した。
怖かった、本当は。
寂しかった、本当は。
行きたくなかった、知りたくなかった―――殺したくなかった。
本当は、生きたかった……!
いつの間にか止んだ風のように、嵐もまた去った。
―――パンドラの箱が全てを吐き出した後、底には光だけが残る。
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