<10>



 朝から晩までルビィの看病と子供の世話に明け暮れ、ブランクは休む間もなかった。
 ルビィは相変わらず眠り続けていた。まるでそこだけ時間が止まったように、彼女は眠り続けた。
 点滴の管が一本、また一本と増えていき、その痛々しさに目を背けたかった。


 どうして。


 思い出すのは、どうしてかいつも、明るい笑い声を上げているルビィだった。
 くだらない冗談を言って笑わせて、本当はルビィを笑わせたいのだと気付いたのはいつだったのか。どうしてもっと早く気付けなかったのか、わからなかった。
 どうしてもっと素直になれなかったのか。どうして意地ばかり張ってしまったのか。
 ここで終わるとわかっていたなら。

 恐怖心に否定の釘を打ち込む度、ブランクの心はひどく痛んだ。


 どうして。


 どうして、何も出来ない。


「ルビィ」
 小さく呼びかけ、髪を梳く仕草は自分でもひどくぎこちないと思う。
 どうして、最初からこんな風に出来なかったんだろう。
 こんなことになるなら、愛していると言っておけばよかった。

 ……なぁ、ルビィ。
 子供を抱くこともなく、消えてゆくのは悔しいだろう。無念だろう。
 でも、俺にはお前の分まで子供たちを愛してやることは出来ないかもしれない。そんなことが出来る自信なんてない。
 安心していいなんて、俺には言えない。


 小さく風が吹き込んだ気がして、ブランクは顔を上げた。妙だった。窓もドアも、開いているはずはなかった。

 ―――きっと、これは悪い夢だ。

 ブランクは信じられないものを見る目で、見上げていた。
 いつの間にか見知らぬ女が立っていた。白いワンピースを着て、真っ直ぐな赤毛を背中に垂らしていた。一度も見たことのない顔だと思った。
 でも。
 ブランクは、その人を知っていた。その赤い口紅を引いた口元を。
 お互いじっと見つめ合ったまま沈黙した時間が流れ、やがてその人はルビィの枕元へやってきて、その顔を覗き込んだ。
 まさか。
「嫌だ」
 震えた声しか出なかった。
「頼むから……連れていかないでくれ」
 彼女は顔を上げ、再びブランクをじっと見つめていたが、唇の端を曲げて少しだけ微笑むと、そうではないとでも言うように、首を横に振って見せた。
 そしてまたルビィに屈みこんだ。
 眠っている彼女を優しい目で見る。あまりにも現実離れしたその光景は、ブランクを混乱させた。
 そして次の瞬間。その体から小さな光の雫が零れ落ち、すぅ、とルビィの体に吸い込まれた。
 何が起きているのか理解できないブランクが目を丸くして見ている中。
 ん、と小さく呻いて、ルビィの瞼が震えた。
「……ルビィ?」
 ブランクは立ち上がった。
「ルビィ!」
 閉ざされ続けていた瞼が震えた。
 ずっと待ち続けた時。
 ふわりと風が吹き込み、ブランクははっとして顔を上げた。
 さっきの女は窓を開け、桟に足を掛けて今にも飛び出していきそうだった。
「待って」
 夢だ。夢に違いない。
 待って、なんて言えるはずがない、俺が。
 呆然としたような息子に、母は微笑みかけた。口元があの言葉を呟く。



「    じゃ     あ     ね    」




***



 パチン、と何かが弾けたような音がして、ブランクは我に返って部屋の中を見回した。
 何も変わっていなかった。窓は閉まったままだったし、ドアも閉まっていた。冷たい風に晒されないようにと気遣われた部屋は、何となく温い空気を澱ませたままだった。
 やっぱり、夢だった―――?
 しかし、夢にしてはリアルだった。ブランクは母親の顔を知らないはずだったが、どうしてか彼女が「母親」だという確信もあった。
 しばらくぼんやりとしていたブランクは、
「ん……」
 小さな呻き声に気付き、慌ててベッドを覗き込んだ。
 同じだった。あの夢と同じ―――
「ルビィ!」
 瞼が震えて。

 夢に違いないのに、そんなもの信じられるはずもないのに。

 次の瞬間、閉じられたままだった瞼が開き、ブルーグレーの瞳が彼を見つめた。

「ルビィ」

 夢に、違いない。

 乾いた唇は「ブランク」と、掠れ声で呟いた。






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