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二階で悲鳴が聞こえたのは、最初の子が生れ落ちて、数時間後のことだった。
全員が椅子から立ち上がり、物音にじっと聞き入った。夜は更けて、辺りは静まり返っていた。
嫌な沈黙が続いた直後。血に染まった赤ん坊を抱いて階下へ降りてきたルシェラは、呆然としてよく赤ん坊を落とさなかったものだというほどだった。
「ルシェラ」
ジタンは手を差し伸べて、赤ん坊を受け取ってやった。
信じられないほどに、小さな子だった。
子供が手から離れた瞬間、ルシェラは膝から床に崩れ落ちた。
「ルビィちゃんが……ルビィちゃんが!」
わっと、彼女は泣き出した。
それまで湯を用意して、タオルを用意してと動き回っていた一団も、思わずぴたりと手を止めた。
「ルビィがどうしたずら」
シナが、珍しく震えた声を出した。
ルシェラは激しく泣き続け、答えることが出来ない。
「ルシェラ!」
最悪の事態を思い、その場の全員が凍りついたようになった。
ただ一人、ジタンだけは赤ん坊を産湯に入れてやろうと動き出した。
「もう少し温い方がいい、マーカス」
「ジタンさん……」
「シナ、ちゃんとタオル広げておいてくれよ」
姉に比べ、二回りも三回りも小さい赤ん坊は、ぐずることも身動ぎすることも出来ないらしかった。血色も悪い。難産だったのだろう。
「よく頑張ったな」
ジタンは、そう言って労い、小さなその子を初めての湯に浸けてやった。
「逆子……だったの」
ルシェラは嗚咽の合間に話し出した。
「それで、すごく時間がかかって……やっと出てきて……なかなか、泣いてくれなくて……」
マーカスが跪いて頭を抱き寄せてやる。
「血が……すごくて……ルビィちゃん、呼んでも……」
ルシェラは再び激しく泣き出した。
「大丈夫っス。ルビィのことは、姉さんに任せれば大丈夫っス」
「わたし、何も出来なかった……!」
「そんなことないだろ?」
赤ん坊を産湯に入れてやりながら、ジタンが背を向けたまま言う。
「ほら、見てごらん。ルシェラがこいつの命を救ったんだよ」
湯で体が温まったのか、赤ん坊は固くなっていた小さな手足の力を抜いて、初めて伸び伸びとくつろいでいた。
「よかったな。ルシェラは偉いよ」
ルシェラは立ち上がって、泣き濡れた目でしばらく赤ん坊を見ていたが、それでも泣き止まなかった。
重苦しいほどの夜が更けていった。
***
医者が呼ばれた。タンタラスで医者を呼ぶなど珍しいことだった。マリアが部屋を出入りする度にルビィの容態を尋ねたが、芳しい返答はなかった。
ブランクは一度も顔を出さなかった。
他の全員は居間で夜を明かした。時折、ルシェラが突然啜り泣きを初め、その度に誰かが背中を撫でてあやしてやった。
遅く生まれた赤ん坊は、弱々しい泣き声を上げながら、それでも力強く息づいていた。
誰も、何も言わなかった。
やがて朝日が昇り、また新しい一日が始まった。
「ジタンさん、帰らなくていいんスか」
窓から差し込む朝焼けの光の中、疲れきったような声でマーカスが訊ねた。
問われたジタンは、曖昧な笑みを浮かべただけだった。
帰らなくていいわけはなかった。しかし、帰れるはずもなかった。
「ジタン、赤ちゃんのミルクってどうすればいい?」
バンスが台所から顔だけを出して、訊く。
「どれ」
ジタンは立ち上がり、粉ミルクの置かれた調理台を覗き込んだ。
「ああ、それでいいよ。温度計で計って」
やがて哺乳瓶を二本用意したバンスは、ルシェラが台所の床で壁に凭れてうたた寝しているのを見ながら、困った顔をした。
「どうしよう」
床はタイル張りで冷えるし、あのままでは風邪をひいてしまうだろう。ジタンは起こさないように抱き上げると、居間のソファに寝かせた。
「俺、恐くて触れないんだけど」
ベビーベッドに寝かされた赤ん坊を覗き込み、バンスが呟いた。
生まれたばかりの赤ん坊は、ふにゃふにゃしていてひどく頼りなかった。
昼過ぎ、ジタンは赤ん坊の世話の合間にルビィの部屋を覗いてみた。
ただでさえ薄暗い部屋は、カーテンを閉め切っていて更に暗く、空気も澱んでいた。
ドアの開く音にマリアが顔を上げた。
「腹、減らない?」
「さっき差し入れしてもらったから、大丈夫」
マリアは少しだけ口元を緩めて笑った。
ジタンは目線を移ろわせた。ブランクはぼんやりとルビィの顔を見ているだけで、こちらを向く様子は微塵もない。
部屋は暗かったが、その表情が見えないほど暗くはなかった。
ジタンは、見てはいけないものを見たような気がして、目線を外した。
どうにかしてやりたいけど、どうすることもできない。
「オレさ、もう少しこっちにいるよ」
やがて、ジタンは小声で囁いた。
「大丈夫なの?」
マリアが心配そうに言う。
「う〜ん……たぶん、大丈夫」
「そう」
それからマリアは立ち上がり、ジタンに下の子たちの様子を幾つか尋ねた。
「あたしも後で様子見に行くからさ。悪いけど、よろしくね」
「ん」
ジタンは安心するようにと笑いかけた。
居間に戻ると、マーカスが落ち着かない様子で歩き回っていた。
「あ、ジタンさん。ルビィどうっスか?」
ジタンは一瞬、色のないルビィの顔を思い出したが、軽く首を傾げた。
「う〜ん、オレには何とも……」
「……そうっスよね」
マーカスは手近な椅子に座ると、溜め息を吐いた。
「シナさん、一回家に帰ったっス」
「そっか」
「ルシェラとバンスは買い物に行ってもらったっス」
ジタンが顔を廻らすと、バクーは孫娘のおむつを換えてやっていた。
「オレ、ちょっと城に行ってくる。このまま連絡入れないのも、心配するだろうし」
「あ、そうっスね」
マーカスは椅子の背に凭れたまま、うんうんと頷いた。
「なるべく急いで戻ってくるわ」
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