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 三日後、赤ん坊には未だ名がなかった。
 ルシェラは、上の女の子を「お姉ちゃん」、下の子を「おちびちゃん」と呼んで、熱心に世話をしていた。
 それにつられて、みんな彼のことを「ちび」だの「おちび」だの呼んでいたので、小さなその子はきっと不満だったに違いない。
 それでも、その子がほんのちょっと多くミルクを飲んだとかそんなことだけで、アジトには歓声が上がるのだった。
 小さな希望。
 赤ん坊にはそんな言葉がそっくりよく似合った。
「この子の成長が遅いのはわかってたのよ」
 ある時、マリアがぽつりとそう話した。
「危ないから、諦めた方がいいかもしれないと思ったさ。でも、ルビィは首を縦に振ろうとはしなかった。自分がどんなことになっても、この子を助けてやってほしいってね」
 それでルシェラは、「おちびちゃん」を取り上げるとき、マリアが一瞬躊躇ったのを思い出した。
「あたしは、あの子の生きる力を信じるよ。生きようとする力……執念みたいなものをね。結局は、それが人を生かすのさ」
 あんたにもそんな力が備わってるんだろうさ、マリアはそう言って、赤ん坊の頭を撫でた。

 ブランクは一度も降りてこなかった。

 夕方、ジタンは再びルビィの部屋を覗いた。
 ブランクは最初の日と同じところで、同じようにルビィの顔を見ていた。
「ブランク」
 ジタンは小さく声を掛けた。
 反応は全くない。
 一瞬迷った後、ジタンは部屋へ入った。
 ルビィの枕元へそっと近づく。彼女は、未だ色のない顔で眠り続けていた。
 心の底が震えるような感覚がした。その直前まで、椅子を投げ飛ばすほど元気にしていたのに。
「ブランク」
 ジタンの声は僅かに掠れた響きになった。
「大丈夫かよ、お前」
 それでもブランクは何も答えない。まるで聞こえないように、否、本当に聞こえていないのだろう、ルビィの顔を見ているようで、本当は何も見ていないのだ。
「ブランク」
 ジタンは両手で肩を掴み、無理矢理こちらを向かせた。
「しっかりしろよ」
 揺さぶると、ほんの少しだけ身動ぎした。
「お前がしっかりしなくてどうするんだよ。父親になったんだぞ、お前」
 疲弊した褐色の瞳が、ジタンを見た。
「赤ん坊の顔、見てやれよ。名前呼んでやれよ。生まれてきてくれたこと、喜んでやれよ。お前にしか出来ないんだぞ」
「……」
 ブランクは再び目を逸らし、今度は床を見た。夕暮れの日差しがカーテンの隙間から差し込み、真っ直ぐな光のラインを描いていた。
「ルビィのこと、辛いのはわかる。苦しいのもわかる。でも、いつまでもそうしてるわけにはいかないだろ? 子供のこと、ちゃんと考えてやらないと」
「……わかってる」
 呟くような小さな声で、ブランクはやっと返事をした。ジタンは少しだけほっとして、肩から手を離した。
「オレがルビィのこと見てるから、行ってこいよ。ついでに飯も食ってこい」
 彼はいつものようにニッと笑った。


「ブランク!」
 居間に現れた彼に、ルシェラがほとんど叫び声のような声を上げた。
「あ、あの……ほら、こっち来て」
 駆け寄ると、手を取ってベビーベッドの傍へ連れて行く。
「可愛いでしょ? こっちが最初に生まれたお姉ちゃん。こっちは後に生まれたおちびちゃんだよ。小っちゃいけど、元気にしてる。二人ともとってもいい子だよ」
 ブランクは始めてまじまじと我が子を見つめた。
 ちょうど目を覚ました娘が、母親にそっくりのブルーグレーの瞳で彼を見上げた。
 ああ、なんて小さいんだろう。
 ブランクは小さく息を吐き出した。
「悪かったな、ずっと面倒見てもらって」
 夢から醒めたように、そう言ってブランクはその場の全員を見渡した。
 大きく頷くバクー、心配そうに見ているマーカス、シナは首を横に振って笑う。目に涙を滲ませたルシェラ、「夕飯できたよ!」と、駆け込んできたバンス。
「ブランクも食べるだろ?」
 彼は屈託なく笑いかけてきた。


 立ち止まっていてはいけないのだ。あいつの分まで、この子たちの全てを背負わなければならない。誰にも代わってはもらえないのだから。
 ブランクは、恐怖を胸の奥に仕舞いこもうと努力した。
 失うことの恐怖。
 歩くことを忘れた人が、その一歩を踏み出すのにひどくぎこちないのと同じで。
 転ばないようにするのが精一杯だった。






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