<2>



 ルビィの故郷は、十五年前と同じ場所に今もちゃんと存在していた。あまりに長い間離れていたせいで、それがまだそこにあることが、ルビィには不思議なほどだった。
 そう、この十五年で、ルビィの方はすっかり変わってしまったのだ。小さな少女だった彼女も、今ではもう立派な大人だった。
 そして、途方に暮れたように故郷の村を眺めている隣には、彼女の夫が立っていた。


 ずっと昔に仕舞い込んだまま放って置かれた実家の鍵を、ルビィは鍵穴に差した。ドアを開けた途端、家の奥から流れてきた空気に、幼い日ここに置き去りにした時間がまた動き出したのを感じて、無意識に小さく身震いする。
 ブランクが勇気付けるようにその肩を叩き、ルビィは振り向くと「大丈夫」とでも言うように頷いて見せた。
 大丈夫。もう十五年も前のことなのだから。
「父さん?」
 玄関から呼びかけてみる。返事はないが、奥の方に気配を感じた。
「うち、ルビィやけど」
 掠れた咳払いが聞こえて、ルビィは一度だけ深呼吸して中へ入った。
 かくして、父親は一番奥の居間に布団を敷いて寝ていた。
「誰や」
 病人はひどくしわがれた声で尋ね、ルビィはもう一度名乗った。
「体壊したんやて?」
 父親は、今度は忍び笑いのような息を吐いた。
「なんや、心配して戻ってきたんか」
「そうやないわ」
 ルビィは壁の方を向いて寝転んでいる父親を、見えるわけもないことをわかっていながら睨めつけた。
「あんたが近所の人に迷惑かけとるやろうと思うて、悪いから戻ってきてん。あんたのためやないで」
「ルビィ」
 ブランクが小さく窘めた。ルビィはそれには答えず、ブランクの腕を取って引っ張った。
「この人と結婚したんや。一緒に来てくれてん」
 父親は見ようともしなかったが、ルビィは構わず続けた。
「うち一人やないんやからね、おかしな真似したら容赦せんで」
 しかし父親は全く反応を示さず、ルビィはむっとして踵を返した。
「おい」
「買い物、行ってくるわ。この家何にもないみたいやし」
「一人で大丈夫か?」
 玄関のドアの前に立ちはだかり、ブランクはルビィの目を確かめた。そこに動揺の色を見て取ると、小さく溜め息を吐く。
「俺も一緒に行くから」


 途中、父親の危篤を知らせてくれた近所の家を訪ねた。
 子供の頃、母親の病気が酷くなった頃から、ルビィはその家人にとても世話になった。母親が亡くなると、父親の帰ってこない家に一人いるルビィを食べさせ、面倒を見てくれたのは家主の妻だった。
 彼女の夫は、貧しい自分たちの暮らしと、何人もいる自分の子供たちを慮り、それをあまり快く思っていないことを幼いルビィは知っていた。だからなるべく迷惑をかけないよう、自分で料理もしたし、部屋も掃除したし、服を洗濯もした。それでも小さな女の子には限界があり、家に金を入れない父親の代わりに、金作をすることは出来なかった。
「引き取ってくれるって、言うてくれはったんや。養女にしてくれるって」
 ルビィは、その家への道すがら、ブランクに説明した。
「せやけど、おばちゃんとこも貧乏やったし、子沢山やったやろ? 無理なんはわかっとった。おじちゃんはうちのことあんまりよう思うてはらへんかったしね」
「それでリンドブルムに?」
 ルビィは小さく頷いた。
「都会には、子供でも働く場所があるって聞いたんや」
 ブランクは渋い顔をした。それはたぶん、出鱈目か、人身売買の隠れ蓑としての誘い文句だろう。
「うちは運がよかった。タンタラスに拾うてもらえたんやもん」
 そこで隣家に辿り着き、ルビィが戸を叩くと、程なくして中年の女性が顔を出した。
「どちらさん?」
「あの、うちルビィです。ご無沙汰してます」
「まぁ!」
 彼女は戸の隙間からやや太り気味の体を飛び出させると、ルビィをぎゅっと抱き締めて笑い出した。
「まぁまぁまぁ! こんなに大きなって! えらい別嬪さんになったやないの」
 ルビィも笑い声を立てた。
「おばちゃんも元気そうで何よりやわ」
「おおきにねぇ。あんたのこと、ずっと心配しとったんやで。お前さん! ちょいと!」
 彼女は家の中にいるらしい夫を呼んだ。
「父がえらい迷惑かけて、ホンマにどない言うたらええんか……」
 ルビィがすまなそうに切り出すと、彼女は首を横に振って微笑んだ。
「何言うとるん、大したことはしてへんのよ」
「あの人……『お母さん』は?」
 「お母さん」の響きに違和感を込めて、ルビィは小さく尋ねた。
「あんたがこの村を出て行ってすぐにね、あの人も出て行きよったんや。えらい大声で喧嘩してねぇ、それっきり」
「……そうやったん」
「そんなことがあったもんやから、その後は女の人も近寄らんかったで」
 同情めいた色を込め、彼女はルビィの手をぎゅっと握り締めた。
「あんたも辛いやろうに……何でも力になるからね。遠慮せんで言うてや」
「うん―――ありがとうね、おばちゃん」
「ホンマは、十五年前にあんたの力になれてたらよかったんやけどねぇ……」
 思い出したのか、彼女は肩を落として涙ぐんだ。
「まだあんなに小さい子やったのに、都会へなんか出してしもうて……うちもこないに貧乏してへんかったら、あんたのことも面倒見てやれたのにって、うちの人ともよう言うてたんや」
「うんん、十分してもろうたもん、感謝しとるんよ」
 ルビィは優しく頭を振ると、もう一度微笑んだ。
「まったく、あの人は何をしとるんやろね。お前さん! ルビィちゃんが帰ってきよったで!」
 やっとのことで顔を出した主人は、一言二言挨拶すると、気まずそうにまた家の中へ消えていった。
「あの人、あんたのこと追い出したみたいで、気後れしとるんやろ」
 忍び笑いを漏らす。
「そんなぁ、おじちゃんのせいやないもん」
 その返答に満足したのか、彼女はルビィの腕を何度もさすって、彼女の無事を心から喜んでいたが、ふとその背後、少し離れた場所に立っていた青年に初めて気付いた。
「あら……」
 その目線を追って、ルビィは振り向いた。ブランクは黙ったままじっと待っている。
「あの―――うちの人」
 ルビィは照れ臭そうにそう告白した。
「結婚してん。もうすぐ母親になんねん、うち」
 ブランクは自分をじっと見つめる視線に、小さく会釈を返した。
「まぁ、そう……そうなん」
 なんとか祝いの言葉を述べようとした、声が震えている。ルビィは最初から、この古臭い片田舎に、ブランクの容貌が受け入れられるとは思っていなかった。
「ええ人なんよ」
 ブランクが聞こえないのをいいことに、ルビィは彼を褒めた。
「優しいし、よう気ぃ回してくれるし」
「そうなん……よかったやないの」
 やっとのことでそう言うと、古い恩人は不安げな目をブランクに送り、もう一度彼を見定める。しかしあまりよい結果ではないらしく、無意識に溜め息を吐いた。
 ブランクが誤解されるのはどうにも我慢ならなかった。そして、彼女の心にそんな気持ちが込み上げたのは、これが初めてのことだった。
「うちは幸せやねん」
 思わず躍起になってそう言うと、彼女の恩人は慌てたようにルビィに目線を戻した。
「ああ、あの、そういうつもりやないんやで。あんたのことが心配なだけや」
 彼女の人柄はよく知っていた。だから、ルビィも今は気持ちを静めようと努力した。
「うん。おおきに、おばちゃん」
 ずっと落ち着いた声でそう答えると、ルビィはいとまを告げた。


 家に帰る前に、ルビィはどうしても寄りたい場所があると言った。
「母さんの、お墓。もうずっと放ったらかしや」
 ルビィは力なく笑った。
 しかし墓は綺麗に掃除が行き届いていて、ルビィは本当に感謝の念でいっぱいになった。
 母は、彼女が村を出て行った日と同じように、相変わらずそこに眠っていた。
 ルビィは墓前にしゃがみ込むと、そのまま黙りこくった。優しい母の面影。ずっと、ずっと心の支えだった。
 ブランクはその側に立って、同じように冷たい墓石を見つめた。ルビィを生み、愛しみ、そして幼い彼女を残して死んでいった母。さぞ心残りだったろう。
「風が冷たくなってきたな」
 ブランクが告げると、ルビィは名残惜しそうに立ち上がった。
「ん」
「帰るか」
「うん」
 ルビィはするりとブランクの手に自分の手を滑り込ませた。そんな素振りを滅多に見せないだけに、一瞬ブランクは驚いてその顔を覗き込みそうになった。けれど。
 ルビィの、少し冷たい白い手を握り締めると、ブランクは迷い子を誘うように帰路に着いた。







BACK      NEXT      Novels      TOP