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 ルビィが眠ってしまうまで、ブランクは黙って見守っていた。
 最初から心配だったのは、ルビィが色々と思い出してしまうことだった。辛いことが多かったと聞いている幼い日々。ほんの僅かな間の幸せ。
 「ブランクは母親の話が嫌い」とインプットされてなかなか抜けないルビィは、彼に母親の詳しい話をすることはなかったけれど。
 ブランクは想像した。愛され、甘やかされ、朗らかに笑うルビィの姿。
 柄にもなく酷く切なくなって、ブランクはルビィを起こさないように額に口付けした。彼女はぐっすり眠っていて、ぴくりとも動かなかった。
 安心すると、ブランクもようやく寝る気になった。
 しかし、居間の方から苦しげな咳払いが聞こえ、彼は様子を見に起き上がった。
「大丈夫ですか」
 ブランクは義父の枕元に屈み込んだ。
 ゲホ、ゲホ、と断続的な咳が止まると、彼は初めて娘婿の顔をまじまじと見つめた。
「あんた、誰じゃ」
 やはり聞いていなかったのか、記憶が錯綜しているのか。きょとんとした顔の義父に、ブランクは僅かに苦笑した。
「ブランクです」
 一番わかりやすく説明しようと、ブランクは名乗った。
「先月ルビィと結婚したんです」
「ほう」
 彼はしばらくブランクの顔を凝視していたが、やがて嘲笑するような音を漏らした。
「父親に挨拶もなしに結婚したんか」
「……すみません」
 ブランクは素直に謝った。
 父親は尚もブランクの顔を見ていたが、今度は自嘲するように笑った。
「まぁ、今更父親も何もないわな」
 伏し目がちに苦笑する仕草はルビィとよく似ていた。それは、ブランクに二人が親子なのだという現実を改めて示していた。
「父親らしいことは、何一つしてやらんかった」
 ごろりと寝返りを打ちながら、父親は大儀そうに呟いた。
「父親らしゅうないことは、仰山したけどな」
 ブランクは背を向けて寝ている彼の顔を窺った。その声には、どことなく後悔の色のようなものを含んでいる気がした。
「誰も信じんやろが」
 父親は、最早ブランクに話しかけているというより、独り言のように呟いていた。
「ホンマは、あの子のことを愛しとったんや」
 その瞬間、ブランクは目を瞠った。あまりに意外な言葉だった。
「せやけど、そのやり方がようわからんかった。あの子の母親が死んでからは、どう扱ったらええんか、皆目わからんようになった」
 父親は鼻を鳴らした。
「そんなん言うても、ただの言い訳にしか聞こえんやろうけどな」
 細く途切れた響きが、まるで懺悔の言葉に聞こえた。
「あの子はもう、わしのことは許してはくれんやろうけど―――あんたが幸せにしてやってくれや」
 寂しい人生だったのだ。妻は早くに亡くなり、娘は自分を置いて出て行った。自分が間違っていることはとうにわかっていて、けれど、どうにかしたくてもどうにもできない。
 ブランクは一瞬、以前暗い部屋で腕を引いた時に怯えていたルビィの目を思い出した。父親が亡くなる前に、取り戻してやりたいと思った。
「お父さん」
 ぎこちなく呼びかけてみて、ブランクはその単語を口にしたのは人生で初めてだったと気付いた。
「あの……お願いがあります」
「なんや」
 父親はぶっきら棒だった。
「ルビィのこと―――許させてやって欲しいんです。最後くらい、取り戻せないですか」
 彼はもう一度寝返りを打ち、意味のわからないことを言い出した娘婿の顔を見つめた。
「何がや」
「今でもあいつは傷ついたままなんです。忘れたくても、忘れられないんです」
 それ以上の説明は、ブランクにはできなかった。父親が理解するまで、二人は黙ったままだった。
「あの子は、許さへんやろ」
 やがてそう呟いた声は揺れていた。
「だから、許させてやって欲しいんです」
 父親は再び黙ってブランクの顔を見つめた。初めて関心を持った目になった。この男と娘が結婚したことは間違いないらしいことを悟り、元から自分のものではなかったとは言え、娘が知らない間にこの男のものになったことが、彼の胸に不満をもたらした。
 しかし、それをとやかく言うだけの権利も余地も、彼の元には残っていないこともまた事実だった。
 ブランクの褐色の目は真剣だった。彼にもかつてはそんな風に真剣に生きていた時期もあったのだが、もう思い出せないくらい昔のことだった。
「どないせえっちゅうんや」
 父親は不遜な声で言った。
「謝ってやってもらえませんか」
「謝る、やて?」
「はい」
「そんなもんで済むんやったら、警備隊はいらんやろ」
「でも」
 ブランクの必死さが眩しくて、父親は再び寝返りを打って目を逸らした。
「それでもルビィはきっと待ってるはずです。さっきの言葉、あいつにも聞かせてやってください」
「何の話や」
「本当は、ルビィのことを愛していたって」
 キィ、と扉が軋んで、そこに凭れていた人の気配がどっと流れ込んできた。
 ブランクが振り向くと、ルビィが青い顔をして突っ立っていた。
「お前、いつの間に……」
「何、適当なこと言うてるん?」
 ルビィはブランクには目もくれず、父親の枕元に座り込んだ。激しい怒りに目が爛々と燃えているのを、ブランクははっきりと確認した。
「何が愛しとったよ、ふざけんで! 自分が何したんか忘れたん? うちのこと、どんなん扱ったか忘れたん?! ええよね、した方は忘れてしまうんや。された方は一生苦しめられるのに!」
「ルビィ」
 押さえた肩が酷く震えていた。普通の体ではないルビィがあまり興奮するのは心配だった。
「うちは、あんたのこと一生恨むわ! 一生恨んで、恨み倒したる! あんたなんか、地獄に行ったらええねん!」
 ルビィが金切り声で叫んだ瞬間、父親は急に激しく咳き込んだ。口元を押さえた指の間から、シーツの上に黒い染みが点々と広がり、それでも止まらなかった。
 ブランクは慌てて立ち上がり、サイドボードの薬を取ってきて、枕元の水差しからグラスに水を注いで渡した。
 ルビィは呆然として、何もできなかった。
 やがて咳が落ち着くと、父親は力なく笑った。
「そうや、わしはもうじき地獄行きや。安心せい」







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