<5>



 ブランクがグラスを片付け、汚れたシーツを取り替えるのをルビィはぼんやりと見ていた。
 シーツを外すため一度ソファに移された父親は、痩せていて、まるで小さく萎んだ風船のようだった。
 ルビィは動揺した。直視できなかった。
 ―――父は、間もなく死ぬのだ。
「ルビィ、代えのシーツどこかわかるか?」
「納戸の戸棚ん中やと思う」
「ん」
 ブランクが出て行ってしまうと、父娘の間に沈黙が流れた。
 父は微かに息を弾ませていて、喉の奥からひゅうひゅうと頼りない音が響いていた。
「……いつから?」
「五年くらいやったか」
「お医者さんには診てもろうてるん?」
「そんな金はないわ」
 父は鼻を鳴らして自嘲した。
「知っとったら……」
 知っていたらどうしていたというのか。ルビィは唇を噛んだ。
 知らせようにも、娘がリンドブルムに行ったこと以外、父には何も知らせていなかったのだ、手立てはなかっただろう。
「どうでもええやないか。早う死んでくれた方がええんやろうが、お前は」
 苦しげに息を吐くと、顔に手を当てて背凭れに凭れかかった。
「せやけど……このまま死なれたら親不幸もん言われるし」
「今更やろうが。家を出ていってもう何年たったんや」
「うちは……」
 父親の手はその顔から外され、彼は幾分目を丸くして娘を見つめた。
「お前、泣いとるんか」
 小さく肩を震わせながら、娘は頑なに頭を振った。
 子供の頃と同じだった。何をしても喚きはしなかった。ただ、肩を震わせて静かに泣いた。
「自分でもわからん。ずっと憎んできたのに」
 ルビィは掠れた声で絞るように言った。
「父さんはうちには一人しかおらんねんて、そんなん思うてしまう」
 俯き、震えている娘の頭を撫でてやりたいと思ったのは、実は初めてだったのかもしれない。しかし、部屋の隅に座り込んでいる娘までは届きそうになかった。
「昔のようには、呼んでくれんのか?」
 顔を上げると、父の目があまりに優しい色をしていて、ルビィは戸惑った。
 ルビィの脳裏に、一瞬懐かしい思い出が蘇った。父がまだ真面目に働いていて、母が元気だった頃の幼い記憶。大きくて広かった父の背中。
 そして、それをすべて打ち消すような残酷な記憶。
 母が亡くなると、父は豹変した。
 一度だけ、母の病気はルビィを産んだせいだったと聞かされたことがあった。ひどい難産で、母にはその後数年生きるだけの力しか残らなかった。
 だから、父に酷い仕打ちをされても何も抗えなかったのかもしれない。
 父から母を奪ったのは自分なのだ、と。
「お父ちゃん」
 ルビィは立ち上がると、父の側に座り直した。
「ずっと、聞きたかったんやけど」
「何や」
「母さんが死んだのって、うちのせいやったん?」
 父は沈黙した。
 いつの間にか新しいシーツを片手に戻ってきたブランクも、戸口のところで立ち止まったままでいた。
 しばらくの静けさの後、父は「違う」と言った。
「お前とは関係ない」
「嘘や」
「もう終わったことや」
「お父ちゃん!」
 あんなに大きくて恐ろしかった父の手は、今は痩せ細って強張っていた。全てはとっくの昔に終わっていたことをルビィは悟った。そして、十五年間恐ろしくて考えないようにしていた答えを、彼女は欲した。
「それでうちのこと憎んでたん? 許されへんかったん? それであんなことしたん?」
「……違う」
「なぁ、ホンマのこと答えてや! 全部うちのせいやったん?」
「例えお前を産んだことで体が弱ったんやとしても、それは誰かのせいでもなんでもない」
 吐き捨てるように、父はそう言った。
「誰かのせいやと言うんやったら、それはわしのせいや」
 再び激しく咳き込んだが、それでも言い止めなかった。
「弱っていくのを側で見ていとうないなんて、そんな理由でわしは家に寄り付かんようになった。死んでしもうたらもう、何もかもどうでもようなった。お前を産んだせいやと、そう思い込もうとして、八つ当たりしたんや」
「お父ちゃ……」
「ルビィ」
 ブランクが腕を引いて立たせた。
「お前、部屋に行ってろ」
「なんで―――」
「感染したらお腹の子供に影響する」
 ルビィははっとして父を見た。
「肺病だ」
 心臓を鷲掴みにされたのはルビィだけではなかった。
「お前、妊娠しとるのか」
「5ヶ月です」
「あかん、側へ寄るな」
 ルビィはブランクに腕を引かれたまま、フラフラと部屋へ戻った。
「どうして……」
 ルビィをベッドに座らせると、ブランクは静かに呟いた。
「医者に診せても手遅れかもしれない」
 ルビィは一瞬惑った。ずっと憎んできた。地獄へ落ちればいいとまで思った。
 それでも、このまま手を拱いて見ているだけなんて、それは彼女の良心が許さなかった。
 それに、どうやら父は自分を愛してくれているらしかった。今まで決してそう思うことはなかったが、父は父なりに、娘を愛していたらしい。
「明日、呼んでくる」
「そうだな」
 ブランクもその方が安心だった。
 手渡した薬と症状を思い巡らせ、彼にはその病名がわかった。わかれば、今度は身重の妻が心配になった。医者が回診してくれれば、ルビィを危険に晒すことはないだろう。
「とりあえず、少し休め」
 とても眠る気にはなれなかったが、ルビィは小さく頷いた。
 横になると、自分が酷く疲れていることをひしひしと感じた。
「ブランク」
 出て行こうとしているのを、心細くなって呼び止めた。
 彼は戸口で振り向き、一瞬何かを考えてから枕元へ戻ってきた。じっと見つめていると、褐色の瞳はふっと微笑んだ。
「ちゃんと世話しておくから、安心しろ」
 ブランクは穏やかに笑って見せた。




 しかし、それからあまり長いこと父は生きられなかった。







 どうしても、母の隣に葬って欲しいと父は言い張った。
 ルビィはそれを拒否しようとしたが、父は激しく哀願した。
 愛していたのだ。愛していたから見たくはなかったのだ。そして、愛していたから失ったのだ。



「お父ちゃん、向こうでちゃんと母さんに謝ってや」
 ルビィは花を手向けると、そう呟いた。

 丘の上に整然と並んだ墓石は累々と、そこに眠る人々を示していた。
 この世にたくさんの命が生まれ、そしてその瞬間から、魂は須らく死に向かい始めるのだ。
 母は死に、父も死んだ。
 次にはまた、自分たちの元に新しい命がやってくる。
 そうして命は繰り返し生まれ、また還るべきところへ還っていくのだ。
 ルビィはそのことを、静かに胸に刻んだ。
「行こか」
 立ち上がったルビィは、二度と振り向くことなく墓地を後にした。
 しかし、ブランクは一度だけ振り向いた。
 夕闇が迫っていた。真新しい墓石は、夕日に染まって赤々と鈍い光を放っていた。


 ―――必ず、幸せにします。


 彼は心の中で誓うと、背を向けて歩いていくその人の後を追った。




-Fin-





今回は、ルビィと父親の邂逅でございました。
いや、一回くらいね。誰かに言って欲しいわけですよ。「お嬢さんを俺にください」と(爆)
9に限ったことでなく、FFはそういうシチュエーションが少ないシリーズですね(笑)
ブランクも結局言ってくれないしさー(ブーブー)
まぁ、「お父さん」と言ってくれたので及第と言うことにしておきます(笑)

この後、子供が双子であることが判明し、そして『双子誕生』へと繋がっていきます。
なんか一連暗い話で、ブラルビっぽくなくて申し訳ないです(^^;)
妙にオリジナル色が強いですしね・・・お読みいただきありがとうございましたm(_ _)m

2006.7.30





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