リンドブルムのシド公子と言えば、十六歳で成人してから現在に至るまでに数多の浮名を立て続け、最早彼の国でそのことを知らない人はいないくらいだった。
 とにかく、女性に目がない。美しい娘が集まる場所があると聞けば、公子は必ずその場所を訪れるのだった。
 そのことに頭を痛めた彼の父君、シド大公が、ならば嫁を取らせると言い出したのも、全く頷ける話なのだった。


 ―――結局それが、政略結婚だったとしても。








<1>


 これがお前の婚約者だ、仲良くしなさい。そう言われて目を遣った先にいたのが、その女性だった。いや、女性とは言えなかった、まだ小さな、本当にほんの小さな女の子だったのだ。
 シドは、思わず我が目を疑った。こんな子供とどうやって結婚しろと?
「ヒルダガルデと申します、お見知りおきくださいませ」
 少女は膝を折って、恭しくお辞儀した。
 慎ましやかな口調だったが、声色は明らかに憮然としていた。彼女がこんな見え透いた政略結婚を喜んでいないのは目に見えていた。
「ヒルダ嬢はお幾つになられたかな」
 大公が面白がってそう言った。……この人は、どうも他人の不幸を面白がる節がある。
 大体、自分が成人したその日に、病いを理由に退位した人だ。しかも実はそれが仮病で、「後妻とのんびり余生を過ごしたい」というのが本当の理由だったというのだから、彼をひねくれ者と言っても、決して過言ではないだろう。
 しかし、この国の人々もそんなことはわかりきっているのか、未だに彼を「大公」と呼び、その息子を「公子」と呼んでいた。実質的には、譲位しても何も変わってはいなかった。

「十四でございます」
 ヒルダは、行儀よくそう答えた。
「そうか、大きくなられたな」
 大公は、相変わらず面白そうな目をしてそう返した。
 どこがだ……! と、シドは心の中で悲鳴を上げた。十四―――! しかし、見た目はそれより更に幼く見えた。
「これからはこの愚息がそなたの相手をする故、何か不便があれば何なりとこの者に申し付けるが良いぞ」
 ヒルダが初めて、ちらりとシドを見つめた。思わずギクリとして、シドは喉を鳴らして唾を呑み込んだ。
 綺麗な娘ではあったが、何しろ小さな女の子である。どうすればいいのか、彼には全く勝手がわからなかった。
「シド、花園にでも連れて行ってやりなさい」
 父親に名を呼ばれ、彼ははっとして顔を上げた。とにかく、ここで睨み合っていてもどうしようもない。ギクシャクとその令嬢を案内しながら、公子は部屋を出て行った。



***



「都までは遠かったであろう?」
 シドは相変わらずギクシャクしながら話しかけた。こんな小さな女の子と会ったことも話したこともなかった。どうすればいいのか全く見当も付かない。
「ええ、まあ」
 と、ヒルダは澄ました声で答えた。
「こんな遠いところへ嫁に来るのは嫌ではないのか?」
 まるでそうであってくれとでも言いたげなシドの言葉に、ヒルダがキッとばかりに顔を上げて睨んだ。
「ええ、嫌ですわ」
「ならば……」
「でも、父の役に立たなければなりませんから、わたくしは逃げることなんてできないんですの」
 そう言ったきり、また頑固に前を見つめた。
 花園に入っても、彼女は口を真一文字に閉じたまま、ずっと何かを睨みつけて黙っていた。
 シドは困ったように額に手を遣ると、小さく溜め息を吐いて、とりあえず花を摘んで小さなブーケを作ってやった。女の子に花を遣れば、少しは気も和らぐだろうと考えたからだ。
「そなたにやろう」
 ヒルダはまたじろりと睨んできた。
「いりません」
「素直に受け取ればよかろう」
「結構です」
 それで、シドはちょっとむっとなった。こちらが下手に出れば調子に乗りおって……!
「受け取れ」
「嫌です」
「そなた……!」
「そうやって、女の方にはどなたにでも優しくされるのでしょう? わたくしには、そのようなことをなさる必要はございませんわ」
 ヒルダは相変わらず澄ました声で、恐ろしいことを言った。
「な……何じゃと!?」
「わたくしは父の仕事のために公子様に嫁ぐのですから、他の女の方たちのように、お気を遣っていただかなくて結構です」
 気丈なことを言いながら、その声は言い知れぬ悲しみで震えているようだった。
 十四といえば、恐らくは幸福な結婚を夢見るような年頃だろうと、シドは思い当たった。愛のないこの結婚は、彼女をどれだけ失望させただろう?
 何だか、この小さな少女がシドには気の毒に思えた。
「そのように頑なになるでない」
 シドは、今度は気をつけて優しい声を出してみた。
「その……何も、全く望んでいないというわけではないのだ」
 ヒルダが驚いたように彼を見上げた。そう言った彼自身は、もっと驚いていた。
 何とか「わたくしはこの方には嫁ぎたくありません」と言うように仕向けたいと思っていたのに、全く逆のことを口走っていたのだ。
「ただ、なんじゃ、突然のことではあったし、戸惑ったと言うか……」
 シドは口ごもった。目を丸くして見上げてくる少女は大層愛らしかった。蜂蜜のような髪がたっぷりと顔を縁取っていて、瞳は宝石のように輝いていた。こんなに綺麗な娘は見たことがないとシドは思った。幼さばかりが目に付くものの、よく見ればとても美しいのだ。
「わたくしも、父にこのお話を聞いた時にはとてもびっくりいたしました」
 少しだけ、態度が軟化した。ヒルダは口元に微笑を浮かべていた。
「こんなに年上の夫は嫌なのではないか?」
 聞いてみてから、それを本気で肯定されたら、結構傷つくような気がした。小さな女の子から「おじさんはイヤ」と言われるようなものだと思った。
 おかしい。そうなることを目論んでいたはずなのに。
「……嫌ですわ」
 ヒルダは、予想通りの言葉を呟いた。しかし、はにかんだように頬を染めて、そこに長い睫が影を落としていた。
 まるで、天使か何かのようだった。思わず羽が生えていないか、その背中を確認してしまったくらいだった。
「でも、シド様は思ったよりひょうきんな方ですのね」
 そう言って、ヒルダはシドを見上げた。
「少しくらいなら……仲良くして差し上げても宜しいですわ」






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