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それから一週間の滞在の後、ヒルダは実家へ帰っていった。婚約は首尾良く納まり、予想外のことに、父君の大公は大いに驚いた。
「お前も腰を据える気になったのじゃな」
と、殊更可笑しそうにそう言うので、シドはしかめっ面をして黙りこくっていた。
そんなつもりはなかったのに、結局はこの結婚に了承してしまった。何しろ、いたいけな少女を傷つけるのが怖くて、「否」と言えなくなってしまったのだ。
十四と言っていたが、実際は十二くらいに見えた。人形遊びが好きだし、甘いお菓子が好きだし、おまけに「お化けが怖い」ときたものだ。どうにも、親戚の小さな娘が遊びに来たようにしか思えなかった。
だから、トントン拍子に時間が進み、あっという間に結婚の当日がやってきて。
シドはほとほと困ってしまった。この小さな女の子を、どうやって妻としろと言うのか。
婚礼衣装を脱ぎ、薄衣を纏って寝台の上に所在なく座っている少女は、まるで人身御供に差し出された人柱のようにか弱かった。大人っぽく誂えたらしい夜着が、くっきりと浮いて見えた。あれではさぞかし寝づらいだろうと苦笑を洩らす。
シドが少し近づいただけで、その背中が大きくびくりと震えた。
「……き、今日は疲れたであろう」
どうにもぎこちない喋り方しかできない。その自分の態度さえもが彼女を緊張させる要因になっていることは、シドにもよくわかっていた。
全く、百戦錬磨の自分がこんなにギクシャクするなどとは……。
「その、もう休むがよい」
シドは溜め息混じりに、そう呟いた。
その瞬間、ヒルダがガバッと顔を上げた。見る間に頬が紅潮し、やがて耳を塞ぎたくなるような大声で叫んだ。
「公子様は、わたくしを妻とはお認めにならないということですの!?」
金切り声に、シドはぎょっとしてうろたえた。
「そういうわけでは……」
「わたくし、ちゃんとできますもの、ちゃんとばあやに習って参りましてよ! さあ、お好きになさいまし」
シドは思わず喉元に手を当てて「げ」と声を洩らした。
泣きベソをかいて強気に睨んでくるのは、小さな子供だった。シドには、ほとんど妹ができたとしか思えないような子供だった。クマの縫いぐるみを抱っこして、お菓子の夢を見ているのが良く似合いそうな子供だったのだ。
シドは「うーん」と唸り声を上げた。
ヒルダはほとんど泣き出しそうな顔で、それを見上げていた。
「しかし、そなたは怖いのであろう」
シドが、困ったような声でそう言った。
「そなたが怖いようなことを、ワシはしたくはないのだ」
ヒルダが目をまん丸に見開いて、彼を見つめた。
「嘘ですわ、そんなの……!」
小さな声でそう叫んだ。
「わたくしのことなど、結婚相手とお認めになれないということなのでしょう?」
「そうではない。そうではなくて、つまりは……」
シドの声色はますます困惑を深めた。
「もう結構です」
ヒルダはまた泣き出しそうな顔をして、しかし彼に背を向けるとベッドに潜り込んでしまった。
一旦怒り出したらどうすることもできないことはよくわかっていたので、シドも黙って反対側の端っこに寝転んだ。誰がそんなに大きく造ったのかというほどベッドは広々としていて、その向こう側に小さな少女が寝ているとは考え難いほどだった。
初日から最悪の滑り出しで、この先が思い遣られた。そのことを考えると、シドはどうしようもなく疲弊した気分になった。
この小さなお嬢さんと、これからずっと人生を共に歩むなど、どうにも考えられなかった。
しばらくすると、ベッドの端っこでヒルダはスヤスヤと寝息を立て始めたようだった。
恐る恐る起き上がって見てみると、やはりさすがに疲れたのか、背中を向けたままぐっすりと眠っているようだった。
あんなに端っこで寝て、彼女がベッドから転げ落ちないかどうか気が気でなかったが、引き寄せれば目を覚ますだろうと思うと、どうしようもなかった。
シドは、ソファからクッションを幾つか持ってきて、彼女が転げ落ちるかもしれない床の上に並べると、ようやく少し安心して再びベッドに戻った。
手のかかる妹ができてしまったという気分は、どうにも拭いようがなかった。
シドは小さく溜め息を吐いた。
夜中……だったのだと思う。子猫がすすり泣く声でシドは目を覚ました。
一体誰が自分の部屋に子猫など連れて来たのだろうと、不審に思って目を開けた。子猫はくすん、くすんと鼻を鳴らして泣いている。可哀想に、親とはぐれたのだろうか?
そこまで考えて、彼はガバッと起き上がった。子猫など部屋にいるはずはなかった。この部屋にいるのは、自分と小さな少女の二人だけだったのだ―――!
「どうした」
驚かさないように小さな声を掛けたけれど、少女の背中はビクッと震えた。
「怖い夢でも見たのか?」
答えはなかったが、泣き声も止まなかった。
「どうしたのじゃ」
こんなに優しい声を出せたのかと、自分でも驚くくらいの優しい声を出した。まるで赤ん坊をあやすような声だと思った……赤ん坊をあやしたことなど、人生で一度もなかったけれど。
ヒルダは、やっと泣き止んで寝返りを打ち、こちらを向いた。
「お家に帰りたい……」
ごく小さな声で、彼女は呟いた。
「家が恋しくなったのか」
そう訊くと、彼女はこくりと頷いた。目が真っ赤に腫れていて、どれくらいそうして泣いていたのかとシドは思った。胸の奥の方が奇妙に痛んだ。
「こっちへおいで」
両手を広げて呼ぶと、ヒルダは少しの間戸惑ったようにじっと見ていたが、やがて小さく頷いて、素直に寄り添ってきた。そして、腕の中にそっと抱え込むと、再びシクシクと泣き出した。
どうにも可哀想で、もらい泣きしそうな泣き方だった。
「帰りたいか」
訊くと、腕の中で少女がこくりと頷くのがわかった。
思わず、明日になったら帰してやりたいと思うほど、切実な返答だった。
「……ここは嫌いか?」
あやすように頭を撫でながら、シドはそう訊いた。ヒルダは少しの間考えて、それから小さく首を横に振った。
おや、とシドがその顔を覗き込んだ。
「嫌いではないのか」
「……嫌いではありません」
涙声で、ヒルダは答えた。
「その……珍しいお菓子があるからか?」
シドはそう訊いてみた。他に思い当たる理由がなかったからだ。
しかし、ヒルダは再び首を横に振った。
「では、欲しい人形を買ってもらえるからか?」
「違います」
拗ねたような口調だったが、相変わらず涙声だ。
「公子様が、お優しくしてくださるからです」
ヒルダはそう答えて、またシクシクと泣き出した。
「……そう答えよと言われたのか」
駄々っ子のように、泣きながら首を横に振る。
しかし、その答えはあまりに「取って付けたよう」だった。
「わかった、そんなに泣くでない」
シドは思い付く限りの慰め方を試してみた。頭も撫でたし、背中も優しく叩いたし、肩も抱いたし、抱き締めてもやったし、なかなか泣き止まないので、結局そのまま腕枕で添い寝をしてやった。
しばらくベソベソと泣いていたヒルダも、やがて泣き疲れて寝付いてしまった。
自分の寝着の胸元をきゅっと掴んだまま眠っているその子は、どうにも幼くて落ち着かなかった。涙を拭ってやろうとして、更に落ち着かなくなった。そこは、子供の頬っぺたのように柔らかくてふわんふわんだった。
「……どうしろというのじゃ……」
シドは脱力してそう呟いた。
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