<4>
ヒルダが来てから、シドは城下町に繰り出して浮名を轟かすようなことがなくなった。それは、城の人間たちに安心をもたらしたが、彼の悪友には不満しかもたらさなかった。
彼らにとっては、あのシド公子が、あのシド=ファブール9世が、事もあろうか可愛い年下の――それも偉く年下の――女房に夢中になって女遊びをしなくなるなんて、有り得ないことなのだ。
そこで、彼らはちょっかいを仕掛けてみたのだった。新婚の公子へのちょっとした悪戯。
公子が目を覚ましたら、隣に美女が寝そべっている。
彼は一体どんな反応をするだろうか? 考えただけでも可笑しくて可笑しくて、笑いが止まらない。しかも、その噂を城に聞こえるくらいに吹聴してしまおうというのだ。
ほんの軽い悪戯だった。
朝帰りは、結婚してから初めてだった。何しろ、自分がいない間にヒルダがどんな目に遭っているか気がかりで気がかりで、夜遊びなどしていられなかったのだ。
その日も、約束した「リンドブルム一美味しいと噂のパティシエの店」でチョコレートのケーキを土産に買って、帰るつもりだった。
一人で夕飯を食べさせるのは、何だか寂しい思いをさせそうで嫌だったので、彼は急いで歩いていた。
しかし、道の真ん中で丁度友人たちと出くわして、「飲みに行こう」と誘われたのだった。
しばらく遊びに出て来なかったことを責められて、断りきれずに付き合ってしまった。
結婚を祝った乾杯が続き、ついいつもより深酒をしたらしい。
そして、目を覚ましたらこの有り様である。
一瞬、胸元にいるのはヒルダだと思った。しかし、どうも勝手が違う気がして、シドは慌てて起き上がった。
隣には、見たことのない女が眠っていた。そして、
「おはよう、公子さま」
と、妖艶な笑みを浮かべたのだった。
やられた。
シドは大股で通りを横切りながら、頭が沸騰するほど怒っていた。
何が祝杯だ、引っ掛けおって……!
やっと城門を潜ると、衛兵たちが意味ありげな顔で笑っているのが目に入った。
「やはり、あんなにお若い奥方では……」という顔である。シドはますます面白くなくなって、脇目も振らずに自室へ戻った。
ヒルダは、一人で朝食をとっていた。
「あ」
彼女は、その人と認めると吃驚して立ち上がった。
「お帰りなさいませ」
ふわりと笑おうとして、あっという間に泣き顔になった。
「ヒ、ヒルダ!?」
慌てて駆け寄ると、駆け寄った分彼女は逃げた。
「ヒ……」
「来ないで下さいませ!」
「……何?」
「不潔ですわ! 触らないで下さいませ!!」
それでわかったのは、あの悪友たちがとんでもないことを吹聴したらしいということだった。
「誤解じゃ!」
「誤解なものですか、公子様のご武勇伝は嫌というほど聞いておりますもの」
「だから、ワシは嵌められたのじゃ!」
「まぁ、どなたにでございますの!? 仰ってくださいませ!」
ヒルダは全く信じていない。目に涙を溜めたまま、決してシドを近づかせようとはしなかった。
「わたくし、もう一生シド様とは仲良くして差し上げませんわ! 一生ですから!!」
そう叫ぶと、ヒルダは部屋の扉を開けて、出て行ってしまった。
……『狼少年』という童話を、シドは思い出していた。
ヒルダは、本気でシドと一緒に眠らないのだと言い張った。
義理の両親にはその訳までは話さなかったらしいが、あまりに頑ななので、母君は客室を一間、彼女のために開けたということだった。
「公子様の悪い虫が出たらしい」と噂されたが、シドは反論できなかった。
反論したところで、どうせ誰も信じないだろうと思われた。
結婚するまで、あんなに遊び回っていたこの自分なのだから。
広いベッドに一人で横になって、ここ最近ずっと胸元を温めていたぬくもりが無いだけで、こんなにも寂しいものかとシドは思った。
小さな女の子、まるで妹のような。
しかし、妹ができたからと言って、急に遊び回ることに興味がなくなるものだろうかと、シドは考えた。
泣かせたくはなかった、寂しい思いもさせたくなかった、できれば、いつも可愛らしく笑っていればいいと思っていた―――時々拗ねるのも、それはそれで可愛くはあったけれど。
きっと、今回のことは彼女を傷つけたに違いない。何しろ、自分はまだ彼女に指一本触れてさえいないというのに。
それが、一晩どこかの女と過ごしたと聞けば、きっとショックだったに違いない。
朝に会って以来、その日一日顔も見ていなかった。自分が側にいない間に、誰かに嫌なことを言われたりされたりしていないか、シドは心配だった。
そして、一番傷つけておきながら、そんな心配をしている自分が酷く滑稽でもあった。
自分が顔を出せば、それが一番、彼女に嫌な思いをさせるに違いないのに。
何度寝返りを打っても眠れなかった。ヒルダの泣き顔が目の前にちらついた。
あの泣き顔には、てんで弱いらしい。シドは大きく溜め息を吐いた。さっぱり眠気は訪れなかった。
そうこうしているうちに、不意に最初の夜、家に帰りたがって泣いていたのを思い出した。親に捨てられた子猫のように、悲しそうな泣き声だった。
一人でちゃんと眠れるのか、夜を怖がってはいないか、どんどん心配が大きくなっていく。
そういえば、結婚前に城に泊まった時、お化けが怖いと泣いたことがあったではないか。
あの時は彼女の父上が窘めて、それで納まったけれど、ひょっとしたら今日は一人で怖がっているのではないか?
段々、本気で不安になってきた。耳を澄ましたら、廊下の向こうから彼女の啜り泣きが聞こえてくるような気さえしてきた。
シドは思い切って起き上がると、室内履きを履いて部屋を出た。
客間の一つ、とは聞いていたが、どの部屋なのかは誰も教えてくれなかった。
「ヒルダ様がシド様にはお教えになってはいけないと仰って」と、召使の一人が可笑しそうに言っていた。
リンドブルムの客間は、優に100は超える。そのうちのどの部屋を彼女が使っているのか、探すのはかなり骨が折れそうだった。
しかし、どうせ寝付けないのだからと、シドは廊下を歩き出した。
|