<1> ブルメシアの崩れた門構えの前に、一人の男が立っていた。 ―――フラットレイ。 「鉄の尾」と呼ばれた、世界最強の竜騎士。 彼は、雨に濡れた故郷の街を呆然と見つめていた。 ―――それでは。 ここが……この崩れかけた街並みが私の故郷なのか。 「フラットレイ様?」 呼ばれて振り向くと、赤い服の女竜騎士が立ちつくしていた。 「―――フライヤ」 「お久しゅうございます」 彼女は礼儀に乗っ取った、とてつもなく他人行儀な挨拶をした。 「……どこかへ、行っておったのか」 「はい、リンドブルムに。友人の訃報が届いたので」 「訃報……? まさか―――」 と言ったきり、彼は黙りこくった。 「明日、また出かけなければなりませぬ。今度は、アレクサンドリアに。友人が床に臥せっていると聞きましたので」 と言うと、もう一度礼儀正しいお辞儀をし、フライヤはブルメシアの門を躊躇いもなくくぐり抜けていった。フラットレイはその後を追ってやはり門をくぐった。 「おぬしは―――胸が痛まぬのか。このような故郷の惨状に」 「痛みまする」 「では、なぜそのように平然としておる」 「過去を嘆いても致し方ないこと故にございます」 「しかし……」 「あなた様は、記憶にないこの地の惨状に胸を痛めておられるのですか」 「―――わからぬが、いい気はしない」 フライヤは立ち止まった。 「今は、嘆いている時ではない……一刻も早く国を立て直し、民が安心して暮らせる世にすることが私の使命です」 フラットレイも立ち止まった。 「おぬしは、強いのだな」 「―――」 フライヤは答えなかった。 「私は―――気付けば、何も過去のない男になっていた。何一つ思い出せなかった。故郷も、親兄弟の顔も、自分が誰なのかということも……おぬしのこともだ。知っていたのは自分の名だけだった」 「―――」 フライヤは黙ったまま俯いた。 「おぬしに会うて、私の名を呼ばれたとき、妙な落ち着かなさを感じた。私は、決して忘れてはならぬことを忘れたのではないか―――と」 フラットレイは一瞬口を閉じ、フライヤを見つめた。 「おぬしと私は―――恋仲であったのか」 「もうよいのです」 フライヤは頭を振った。 「そんな、過去のことなどどうでも―――」 「しかし、おぬしは私をずっと捜していたと……」 フライヤは口唇を噛み締め、黙り込んだ。 「……一体、どれくらい捜したのだ、私を」 「―――五年」 雨の音に掻き消されそうなほど、小さな呟きだった。 「それほどにも長い間……」 フラットレイは眉を顰めた。 「―――私はずっと、あなたのことだけを想って旅を続けた……。しかし、ようやく探し当てたとき、あなたは私を忘れておられたのじゃ。―――忘らるることがこれほどまでに辛いことだとは……想い続ける方が、どれだけ楽なことか……」 そう言って、彼女は首を振った。 「しかし、あなたは生きておられた。それだけで充分なのです」 とだけ言うと、フライヤは再び歩き始めた。 「……申し訳なかった、フライヤ」 「いえ」 「どうして償えばよいものやら―――」 「あなた様に償わねばならぬような罪はございませぬ」 「フライヤ―――」 「思い出など、所詮過去の産物。これまでどう生きてきたかより、これからどう生きるかの方が、人には重要なことです」 フライヤは街の深部、広場で立ち止まると、人々がようやく手を入れ初めた家々を見回した。 「街を破壊されたのなら、また建て直せばいい。誇りを奪われたのなら、また成せばいい。思い出を失うたのなら、また作ればいい……同じことにございます」 フラットレイは息を詰めて彼女を見つめた。 「―――たった一つ戻らぬとすれば、それは命のみ……」 言い残すと、フライヤは王宮の方へ去っていった。 フラットレイは、呆然となって彼女の背中を見送った。 *** ガーネットは、思っていたよりもずっと憔悴しきっていた。 帰らない想い人を待ち続ける辛さが身にしみているフライヤは、力づけようとも励まそうとも出来なかった。 ―――孤独な戦いじゃ。誰にも救うことは出来ぬ。 数日後、フライヤがブルメシアへ帰郷してみると、手をつけ始めた街の深層部の修復は思いのほか進んでいた。 「フラットレイ様がお帰りになって、みんな張り切っているのですよ」 と、一人の市民がフライヤに伝えた。 捜してみると、フラットレイは人通りのない広場の裏の方で、一人腰を下ろして休んでいた。 なぜ、向こうで休まないのかと尋ねると、何も思い出せなくて悪いからだと答えた。 「おぬしの友人、どうであったか」 「―――不憫で見ておれませぬ」 フラットレイはそれっきり黙り込んだ。 フライヤが何も説明しなかったにもかかわらず、いろいろな訳を感じ取ったらしい。 二人とも何も言わず、ただ座っていた。 こうしていると、まだフラットレイがブルメシアにいた頃、遙か昔の恋が蘇るように思った。 ―――幸せじゃった。何もかもが幸せじゃった……。 フライヤがぎゅっと目を瞑ったのを、フラットレイは見逃さなかった。 「辛い思いをさせたのう」 小さく呟く。フライヤは目を開けて彼を見つめた。 ―――こんなに、すぐ側に。 それこそ、手を伸ばせば届くところにおられるのに。 違う。あの頃とは違う。 そう、彼は全て忘れてしまったのだから――― 「フライヤ」 優しく呼び掛けられ、しかし、同時に彼女の目は地面へと向かっていた。 名を呼ばれることさえ辛い。 あの頃と同じように呼ばれても、同じ響きでも。 指すところは違う。思うところも違う。……今は、ただの、名でしかない。 「フライヤ―――」 もう一度、フラットレイは確かめるように名を呼んだ。 俯いた顔に掛かる銀色の髪の先から、雫がぽたりと落ちる。 涙のようだ、と彼は思った。 杞憂か。 「このようなことを申すのがどれだけ自分本位であるかはわかっておるのだが……私はおぬしに許されたいと―――否、許すと言われたいのではなく……そのような顔をされるくらいなら、そう、思い切り責めて欲しいのだ。勝手に国を飛び出し、勝手に記憶をなくてし、おぬしを傷つけた男を……」 フラットレイは言葉を選ぶように話した。 フライヤは俯いたまま頭を振る。 「おぬしは一度たりと私を責めない。そうして、心に負った傷を一人抱えておる……私はどうすればよい。どうしておぬしの傷を、その痛みを、和らげることが出来ようか―――それとも、そのような資格など私にはないか……」 フライヤは顔を上げた。 緑色に光る目で、かつては恋人だった男を見た。 逃げず、騒がず、責めず。 ただ、彼がそこに在ることのみを確認するだけの、目で。 「あなたは生きておられた。それだけで充分です」 震えもしない声でそう言うと、フライヤは立ち上がり、広場へと戻り掛けた。 しかし、同じくして立ち上がったフラットレイは、半ば無意識に彼女の腕を掴んだ。 「フライヤ!」 「お離しください」 「なぜ責めぬ」 「―――あなたを責めて、あなたの記憶が戻るというのですか?」 腕を握るフラットレイの手が一瞬震えた。 「あなたを責めて、あなたの心は戻るのですか? 私は、あなたが生きてここにおられる、それだけで充分なのです。恋人が生きて再び戻らなかったら……それこそ地獄じゃ」 最後は、雨に溶け込むような呟きとなって消えた。 水滴が石畳を軽く打つ音だけが響く。 そして、遠くから聞こえてくる人々の声。 「―――忘れます」 フライヤは不意に言葉を放った。 「あなたがお忘れになった過去など、いつまでも縋っておっても致し方ないというもの。思い出など、所詮過去の産物じゃ。……もう、用もない」 「フライヤ」 「もう、よいのです―――本当に」 「フライヤ」 強く腕が引かれ、遮られた視界の先から濃い雨の匂いが飛び込んできて。 フライヤは驚いて、自分を抱き寄せる胸に手をついて引き離そうとした。 「何をなさる―――!」 しかし、返事はない。 「お離しくだされ、フラットレイ様」 「―――おぬしはまだ、愛しているのか?」 耳元で響く声が郷愁を誘う。 かつてそこに在り、確実に去った恋。 「愛しているのか、フライヤ? おぬしを忘れ去った罪深き男を」 自嘲的すぎる響きに、フライヤはぎゅっと目を閉じた。 「私には―――おぬしを愛す資格はない……わかっておる」 「フラットレイ様」 冷静な声色で名を呼ぶ。 「お離しください」 深い溜め息と共に、フライヤの体は自由になった。 「―――私は、おぬしを愛しておるのだ」 「戯れ言を」 「偽りはない。本心から言うておる」 フライヤは沈黙で返した。 フラットレイの目は恐ろしいほど真剣で、とても嘘を言っているとは思えなかった。 そう感じれば感じるほど、胸が押し潰されて悲鳴を上げるような気がした。 「―――すまぬ。このようなことを申しても始まらぬのはわかっておる……おぬしを苦しめるばかりということも。一度傷つけ、また苦しめるのでは―――」 堪えきれなくなったフライヤは、短く礼をすると、逃げるようにその場を去った。 頭の中が混乱を極めていた。 おかしな既視感のせいかも知れない。何度も見た夢のせいかも知れない。 それとも、全てを忘れてしまった恋人を、それでも忘れられないせいかも知れなかった。 一人になって、気を鎮めて考える必要がある。 ―――昔、自分が愛した男と。 今、自分を愛すと言う男とを。 |