<2>



 それから三日間、王宮で会っても、街中で擦れ違っても、一言挨拶しただけでフライヤはフラットレイを避けていた。
 最初は驚きの表情をした彼も、次第に困惑と戸惑いを顔に表し、ついには悲壮感さえ漂わせていたが、それでも構わずフライヤは彼と顔を合わすことを頑なに拒否した。
 フラットレイを不憫がってパックが取り成そうとしたが、それさえ拒否した。


 三日目の夜、ついに我慢ならなくなったフラットレイに捕まった。


 彼は王宮の階段下で彼女を待ち伏せていた。
 彼女の姿を認めると、彼は仁王立ちに階段を塞ぎ、彼女を見つめた。
 しかし、何も言わなかった。
 なぜ逃げるのかと責めなかった。
 ましてや、おぬしの気持ちが知りたい、などとも言わないようだった。
 珍しく晴れた夜で、月の光が街並みをゆらゆらと照らしていた。
 フライヤは一瞬躊躇った後すぐに冷静さを取り戻し、何事もなかったかのように彼の横を通り過ぎようとした。
 当然、腕を掴まれる。
「待たぬか」
 フライヤは立ち止まった。
「お休みなさいませ」
「フライヤ!」
 切羽詰った声色で呼ばれ、思わず振り向く。
「―――はい」
 不意に、フラットレイはフライヤの腕を放した。
 その目は、驚きに見開かれていた。
「……初めて答えてくれたのだな、フライヤよ」
 何のことかと訝しげな顔をしたフライヤに、フラットレイは悲しげな笑みを送った。
「今まで、いくら呼んでもおぬしは答えてくれなんだ。私の所業を思えば致し方のないこととは思っておったが……」


 ―――名を呼ばれるのが怖かった。
 覚えていないと言われた瞬間、自分がなくなったあの瞬間を思い出しそうで。
『フライヤとやら……おぬしと私が会うのは今が初めてのことのように思うのだが……』
 そう言われた、あの日。
 その瞬間から、フライヤはフライヤでなくなった。
 いくらその名を呼ばれても、もう自分ではないのだ。


「フライヤ?」
 黙ったまま遠くを見つめていたフライヤの顔を、気遣わしげに覗き込む。
 ―――とっくに、答えはわかっていた。
 自分を忘れたこの男が、自分の愛する男と同じ男であることを。
 記憶など関係なく、例え自分を一寸も覚えていなかったとしても、自分が愛するのはこの男だけなのだと。
 だから、生きて帰ったことを心から嬉しく思う。
 ただ一人、自分が愛する人が生きていたのだから。
 それでも傍に在ることを拒むのは、彼の愛する相手が自分でない気がするから。
 “過去から現在までの彼を愛する”自分ではなく。
 “未来に向かう”自分を愛する人。
 幾つもの擦れ違いが恐ろしく絡まって、全てを呑み込むのにひどく勇気が必要で。
「私は―――」
 喉元に言葉が引っかかり、外へ飛び出すことを拒む。
 一言、言ってしまえばそれで楽になれるのに。
 言葉の代わりに、瞳から涙が零れた。
 それを見られぬよう、顔を背ける。
 ―――なぜ今日に限って月が出ておるのじゃ。
 それとも、月など出ない闇の中でもわかってしまうのだろうか。
 鉄の尾、フラットレイなのだから……
 沈黙した震える肩を抱き締めようと伸ばしかけた手が、すんでで止まる。
 これ以上苦しめるわけにはいかない、と、その手が語った。
「―――すまぬ」
 フラットレイは呟いた。
「やはり、言うべきでないことを申した。忘れてくれ」
「フラットレイ様……」
「私は、この国を出る。もう二度と戻らぬ。だから、フライヤ。私の事で悩むのは―――そのような顔をするのは、もうやめて欲しい」
 しばらくぼんやりと彼の言葉を反芻していたフライヤは、自分の聞き間違いでなかったことを確認するや否や、猛烈に首を振った。
「出てゆくなど、そのようなこと申されないで下され!」
「おぬしのその顔を見ておっては、私はきっとまた過ちを犯す」
「あなたがいない場所で生きる方が、よほど苦しいのです」
「……そうは見えぬ」
「あなたは、あなたがいない間の私を存ぜぬではないですか―――!」
 ほとんど悲鳴のような声でフライヤは訴えた。
「ブルメシアにいてくだされ」
「フライヤ―――」
「傍にいてくだされ!」
 痞えていた言葉が口唇から零れた。
 一度吐き出せば次々と溢れる想い。
 フラットレイの胸に飛び込むと、フライヤはどうしても言わなければならなかった一言を紡いだ。
「―――私は今でも、あなたが好きなのです」


***


 窓から明星と呼ばれる星を眺め、フライヤは微笑んだ。
 ブルメシアにいた頃は知らなかった星空、夜空。
 旅先で初めて満天の夜空を見上げたときの震えるような感動は、今でも鮮明に覚えている。
 同じ空の下を生きている人に思いを馳せたことも。
「―――フライヤ」
 暗がりからそっと呼ばれる。
「眠らぬのか?」
「勿体のうございますから」
 と、フライヤは目を細めて笑った。
「ブルメシアで、空がこんなにも綺麗なことは滅多にありませぬゆえ」
 どれ、と、フラットレイは起き上がった。
「ほう―――と、すると。おぬしと夜空を見上げるなどということは、かつてはなかったのだな?」
「はい。ただでさえ雨が多いのに、ブルメシアは霧の下でしたから」
「そうだったな」
 緩やかに抱き留められ。
「―――ということは、今日は新しい思い出の第一歩だな」
 耳元で囁かれる。
「はい」
「もう一度、私と共に新しい思い出を歩んでくれるか、フライヤ」
「勿論です」
 フライヤは顔を上げる。
「あなたこそ、過去のあなたを想う私でよろしいのですか?」
「どちらも同じ私だからな」
 最後はおどけた響きを込め、フラットレイは微笑んだ。







 昇る朝日の淡い光の中、次第に消え行く明星が一度煌いた。
 ある人が、その星を『恋人たちの星』と呼んだという。
 宵を待って光る星。
 明けゆく空に光る星。
 すべての恋人たちの幸せを願う、紺碧の空に光る明星―――。



-Fin-



展開早っ! フライヤ、それでいいのか!?←また勝手に動かれた人(笑・・・−−;)
明けの明星、宵の明星は金星のことですが、英語で「Venus」。ローマ神話の女神の名です。
で。このビーナスが北欧神話で言うと「フライヤ」なのでございます。
と言うことで、今回フライヤ姐さんのお話でございました♪
微妙に大人っぽい恋を目差しましたが、フラットレイがどうしょもなくてジタンよりさらにヘタレが発覚(何)
フライヤも勝手に突っ走ってくれて、ホント完成度の低いものに相成りました(^^;)
・・・ホント申し訳ないっす(T_T)

一応目差したところは、フラットレイのあの言葉。「想い出など、また作り直せばいい……」
ってあんた、自分忘れておいてよく言うよ! ・・・と突っ込んだのは私だけ?(苦笑)
しかもいつの間にラブラブんなってんだそこぉぉぉ!!(笑)
合点がいかないのでつなげてみました。つながったかどうかは不明・・・。
2002.10.13



BACK      Novels      TOP