−TSUBASA−




<1>



「トット先生!」
 船着場で船を待っていたトットは、聞き慣れた清かな声で呼ばれ、ゆっくりと振り向いた。
「これはこれは、姫さま」
 慌てて走ってきたらしいガーネットは、長い見事な黒髪を少し乱し、スカートの裾を捲り上げたまま立ち止まった。
 幼さの残るその姿に、トットは少し咎めるような、しかし優しげな微笑を送った。
「ガーネット姫さま、そのような格好で往来をお歩きになってはいけませぬぞ。あなたも十五におなりなのですからね」
「でも、お母さまが……」
 ガーネットは続きの言葉を呑み込んだ。
 彼女の母は、彼女が長く師事した家庭教師を見送りに行くことを頑なに禁じたのだ。
 その目を盗んで城を飛び出してくるのはとてつもなく困難なことで、時間ぎりぎりになってようやくこうして湖の畔まで走って来られたのだった。



 1799年2月。ガーネットが七つのときから家庭教師として側に仕えていたトットは、ガーネットの母ブラネ女王から突然の免職を言い渡された。
 その決定に対し、トット本人はおろか、城の誰も、どうしようもなかった。
 ―――女王の命令は絶対だった。
 ガーネットは一晩涙に暮れたが、やはりどうすることもできなかった。
 彼女は感じていた。
 母が、どこかおかしい、と。
 自分が必死に訴える言葉に耳も貸さない母など、今まで一度もなかった……。



「本当に、行ってしまわれるのですか?」
「女王陛下のご命令です、仕方ありませぬな」
「わたくし、先生にずっとお勉強を教えていただきたかったのに……」
「きっと私より有能な教師が参りますよ」
 トットの言葉に、ガーネットは小さく頭を振った。
「そんなことありえないわ」
 湖に僅かな波音が響き、船が街の方角からゆっくりと滑ってくるのが見えた。
「トット先生。わたくし、これからどうしたらいいのでしょうか?」
 不安げな色を黒い瞳に称え、ガーネットは泣き出しそうになりながら尋ねた。
 後ろ髪を引かれる思いとはこのようなものかと、トットは胸を痛める。
 自分が去れば、彼女に味方はなくなる。
 女王の様子がおかしい以上、何かあっても相談する相手もない。
 この荒れた時代を、彼女は一人で歩まねばならなくなるのだ。
 なんと不憫なことだろう……!
「姫さま」
 トットは厳かに、そっとガーネットの肩に手をかけた。
「よろしいですかな、姫さま。どの様な時も、ご自分が良いと信じる道を、良いと信じる方向へ進むことです。辛いこと、悲しいこと、何があっても、あなたはあなたご自身を信じなければなりません」
 眼鏡越しに見つめる眼差しの優しさに、ガーネットは涙交じりの瞳で瞬きした。
「自分を……」
「人の生きる道は生まれた時から決まっていると言う者もおりますが……私は、信じております。強く願えば、誰でも自由に行きたい道を選ぶことができると」
「―――自由に?」
「そうです」
 ガーネットはしばらくまじまじとトットの顔を凝視していたが、小さな音を立てて渡し船が船着場に着いたため、ふと我に返った。
「それでは、姫さま」
 トットは励ますように微笑んだ。
「先生……」
「どうか、お元気で」
「先生も、いつまでもお元気でいらして下さい」
 手を振りながら、次第に小さくなる舟影をガーネットはいつまでも見つめていた。



 俄かに、何かが走り出したことを彼女は感じた。







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