Tantalus' Panic 1807
<1>
「―――はぁ」
ルビィは溜め息をついた。
その原因は、どうやらまな板の上の硬くて切りづらい人参とは別の模様……。
「どうしたの、ルビィちゃん?」
ルシェラが顔を覗き込んで尋ねた。
それもそのはず、今、ルビィはラブラブ街道まっしぐらで溜め息とは無縁の生活をしているはず、なのだから。
―――と言っても、このタンタラスの中でどれだけの人間がそのことに気付いているかは不明だったが。
「ん? あ、あの、なんでもないねんけど……」
ルビィは意識を取り戻して答えた。
「ぼーっとしてると、手切っちゃうよ」
「せやね」
が。
「――――はぁぁ」
千切りになるはずの人参は乱切りになっており、ルシェラは「こっちこそ溜め息をつきたい」気分になっていた。
「ルビィちゃん、どうしたの? 悩みごと?」
「え?」
慌てて振り向いたルビィ。頬を僅かに赤くして、目を伏せた。
「―――うん」
「何? わたしでよかったら話聞くよ?」
「―――うん」
躊躇うようにエプロンのレース飾りを指先で弄び、ルビィはますます俯いた。
「あんな、ルシェラ」
「うん」
「ブランク、うちのこと嫌いなんかな」
「―――――はい?」
ルシェラはもう少しで抱えていた玉葱を全部床にぶちまけそうになり、慌てて踏みとどまった。
「あの―――ルビィちゃん。わたしから見るとブランクはルビィちゃんが好きで好きでしょうがない、って感じだけど」
「ホンマに?」
「ホントに」
「……せやったら、なんで―――」
ルビィの目は遠くへ行ってしまった。
「なんで、何?」
「その―――」
泣き出しそうになって俯いたルビィは、何事かを囁いた。
直後、ルシェラはアジトを飛び出していった。
―――猛烈に、怒りを振り撒きながら。
***
「ブラ―――――――――ンク!」
バタンッッ!
酒場のドアが乱暴に開かれ、夕日の逆光の中にルシェラの影が現れた時。
ブランクはおろか、一緒にいたジタンまでも、度肝を抜かれて椅子からずり落ちかけた。
彼女はズカズカ彼らのテーブルまで来ると、ブランクの腕を掴んでぐいっと引っ張った。
「な、なんだよ、ルシェラ」
「いいから、こっち来て」
カウンターの端っこのところへ呼び出す。
「ちょっと、ブランク。どういうつもり(!?)」
「え、何が?」
「ルビィちゃんのことよ(!!)」
「―――はい?」
何かしたっけ?
ブランクは顎に指を当てて考え込んだ。
「もう(!) ルビィちゃん泣いてたんだからね。『付き合い始めて二ヶ月近くなるのに、まだ指一本触れてこない』って。自分は嫌われてるんじゃないかってさ(!)」
「―――あぁ、それかぁ……」
「それか、じゃないわよ!」
思わず大声を上げたルシェラに、ジタンが興味ありげな視線を送る。
ルシェラは慌てて手で口を押さえ、また元のように身を屈めた。
「どういうこと? なんで指一本触れないのよ」
「指の一本ぐらいなら―――って、なんでお前にそんな話しなきゃなんねぇんだよ」
と、ブランクはしかめっ面。
が。
バシン!
カウンターを思い切りよく平手で叩くと、ルシェラは活一発、
「ルビィちゃん泣かすブランクが悪いんでしょうが!」
興味深げなジタンの目が、ますます楽しげになる。
それに比例して、ブランクはますますしかめっ面になる。
かなりマズイ状況だ……と。
「わかったから、そんな大声出すなよ」
「じゃ、理由を述べてもらおうじゃない」
「―――だから、指の一本ぐらいなら触ったって」
「なんでそこまでなの? そういう雰囲気にならないの?」
「―――そういうわけでもないけど……」
「じゃ、なんで?」
「その……だからさ。思うに、俺こそあいつに嫌われてるんじゃねぇか?」
「はい?」
ルシェラは目を丸くした。
「わたしが見てる限りじゃ、ルビィちゃん、ブランクが好きで好きでしょうがないって感じだけど?」
―――なんか、さっきもこれ言ったな。
「……なら、どうして―――あんなに怖がるんだよ」
「へ?」
ルシェラがきょとんとブランクを見た。
「怖がるんだよ、必要以上に。だからそれ以上進めないだよ。―――あ〜、もう。なんでお前にこんな話しなきゃなんねぇんだか」
ブランクはブスっとして、頬杖をついた。
「―――そうなの?」
「そうだよ」
「―――なんで?」
「俺が聞きたいよ」
「でも、すっごい不安そうにしてたよ、ルビィちゃん。―――そうよ! ブランクの押しが弱いからいけないんだよ!」
ついていた肘ががくっとカウンターから落ちた。
「……はぁ?」
「女の子ってさ、少しぐらい、ほら、無理矢理の方がいいんだよ!」
「そ、そうか……?」
「そうそう!」
と、ルシェラは満面の笑みになって言っていた、が。
「ルシェラ―――?」
突然呼ばれ、振り向く。少年が一人、酒場の入り口からこちらを見ていた。
「あ、ヤップ!」
「アジトにいないって言うから、ここかと思って」
「うん、今行くよ!」
機嫌よく返事するとブランクを振り返り。
「じゃ、頑張ってね!」
と言い残して去ろうと―――
「お前、誰?」
と、ジタン。
扉の縁に手を掛け、かなりチンピラ風。
「え、あの……」
「ルシェラとどういう関係?」
と、同じく―――こちらは容姿もチンピラ風のブランク。
「もう! うるさいな、二人とも。ほら、行こう、ヤップ」
「え? う、うん」
ヤップ少年はとりあえずお辞儀して、走り去ったルシェラを追いかけていった。
「―――まったく、昨今の若い奴は!」
と、自分のことは棚に上げてジタンが言う。
「ルシェラはまだ十四だぞ? なのに、あんなよくわかんない男と!」
「なんだありゃ。俺は許さん」
と、いつから父親になったのか、ブランク。
不意に、ジタンがニヤリと笑った。
「で、ブランク。ルビィとはいつからそういう関係なんだ?」
ガクッ。
「やっぱり聞いてやがったか」
「あったり前♪」
「いいだろ、なんでも」
「よくねぇよ。へ〜、でも。まだなんにもしてないんだ〜」
「―――……」
決まり悪そうなブランクの顔を覗き込んで、ジタンは勝ち誇ったように笑い出した。
「なんだよ、お前らしくねぇじゃん!」
「―――うるさい」
「いつもならとっくに―――」
とまで言って、ジタンは、はたと口を閉じた。
「そっか。本気なんだな、ブランク」
ブランクは「は?」と言う。
「俺はいつでもマジだぜ? お前と違ってな」
「ひで―――! オレだっていつもマジだぜ!」
「どこがだよ」
「うるさいよ、お前たち!」
店のおかみさん(タンタラス卒業生)が、おたまで二つの石頭を叩いた。
「喧嘩なら外でやっとくれ!」
しかし、その後もやはり二人の間に進展は見られず、ルビィはますます塞ぎがちになっていった。
一体自分の何が悪いのか、彼女にはさっぱりわからなかった。
それだけに、どう対処すべきなのかもわからず、元来短気な部類に入る彼女は、そのもどかしさに気を滅入らせていたのだ。
と言うより、既に投げやりになり始めていたのかもしれない、と。
後から振り返ってみて、彼女はそう思うのだった。
―――だから、彼にあの話をしてしまったのかも知れない、と。
軽い調子で、彼女の父親の話を。
その時見た茶色い瞳の哀しげな色を、ルビィは忘れられなくなった。
……もう、昔のことだから。
同情なんてされたくないから。
笑いながら冗談みたいに話したのに。
彼は、とても悲しい目をした。
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