<2>



「フラットレイ!」
 不意に、名を呼ばれた気がした。
 すっと動かした目線の端に入ってきたのは、子供のような人影。
「お前、フラットレイだろ?」
 木々の間を縫って近寄ってきた少年に呼ばれ、竜騎士は相手をじっと見据えた。
 驚くほど身が軽い。深々と被った帽子からちらっと見える目はなかなか強い光を称えている。一目ではわからないが、どうやらただの浮浪人というわけでもなさそうだ。どこかしっかりした気配がある。
「いかにも、私はフラットレイだが」
 そう、自分の名はフラットレイ。
 やはり、それに間違いはない。
「私に何か用向きでも?」
「フラットレイ……おれのことがわからないのか?」
 訝しげな表情を浮かべ、少年はフラットレイに尋ねた。
「おぬしは私を知っておるのか?」
 冷静な声色で逆に問い返され、少年―――パックは溜め息をついた。
「当たり前だろ。そうじゃなかったらわざわざこんなところまで会いに来るか」
 ふむ、とフラットレイは頷いた。
「然り。それで、私は一体どこの誰なのだ?」
「おい、ふざけてるんじゃないんだろうな、フラットレイ」
「何をふざける必要がある」
「……お前らしいな、そのセリフ」
 小さく苦笑を漏らしたパックは、ドカッとその場に腰を下ろした。
「フラットレイ。お前はブルメシアの竜騎士だ」
「竜騎士……」
 フラットレイも、つられて座した。
「五年以上前、お前は突然国を出て行った。恋人のフライヤを置き去りにしてな」
「フライヤ……?」
「覚えてないか」
「―――全く」
「おれはブルメシアの王子だけど、いろいろあって国を出たんだ。……でも」
 パックはじっとフラットレイを見た。
「ブルメシアがアレクサンドリアに攻め込まれると聞いて、今は国へ帰ろうとしているところだ」
「攻め込まれる?」
「そうだ。放っておけばブルメシアは全滅するかも知れない」
 瞬間。
 稲妻のような光が頭の中を走り、フラットレイは長く忘れ去っていた感覚を取り戻した。

 それは、竜騎士としての記憶。
 自分には、命を懸けてでも守り通さねばならない存在があったということ。

 彼は立ち上がった。
「故国を、守らなければ―――!」
 走り出そうとした体は、しかし僅かに揺らいだ。
「フラットレイ、お前怪我してるじゃないか!」
 パックが慌てて腕を掴み、叫び声を上げる。
「そんなことはどうでも……」
「ダメだ、ちゃんと医者に掛かろう。大体、記憶がないってどういうことなんだよ」
「……記憶」
「何も覚えていないのか? いつから?」
 何……いつ……?
 フラットレイは、不意に激しい頭痛を感じて頭に手を当てた。
「何も―――何も思い出せぬ……」
 埒が明かない。
 パックはフラットレイを引っ張って、一番近い街、トレノへ向かった。
 フラットレイの身に何が起こったかはわからないが、街へ行って拙そうだったら尻尾を巻いて逃げ出せば何とかなるだろう、と彼は考えた。



***



「記憶喪失ですか」
 医者はふむ、と頷いた。
 フラットレイが負っていた傷は恐らくモンスターによるものであり―――つまりは、ただのモンスターが屈指の竜騎士に大した傷を与えられるわけもなく―――数日休めば大丈夫だと医者は言った。
 そして、最後に一言そう言ったのだった。
「どうして記憶を失くす羽目になったんだろう」
 パックは小さく呟いた。
 フラットレイは死んだように眠っている。
 一体いつからあの森に居たのか。
 一体なぜ、あの森に居たのか……?
「記憶喪失の理由としては幾つかあります」
 人の良さそうな眼鏡の医師は、しかしこのトレノで裏の道を行く人間たちの治療ばかりしていた。
 貴族より、そんな人間の方が治療を必要とすることが多いのだ、というのが彼の持論だった。
「一つは、外傷によるもの。外部から与えられた衝撃などによる脳損傷などが原因の障害です。症状が一時的なものか、永続するものなのかは原因によって変わります」
「……つまり、一生記憶が戻らない可能性もあるってことだな?」
「左様。他にも、生まれつきまたは後天的な脳の疾患など、様々な要因が考えられます。二つ目は、一過性の記憶障害です。頭を強打するなど、脳内への圧力が一時的に記憶を喪失させます。それから―――」
「まだあるのか?」
「はい。強い心的ストレスなどによる記憶障害も考えられます。大きなトラウマを抱えていたり、激しいショック受けたりした時にも、記憶を失うケースが」
「で、フラットレイは?」
「原因を突き止めるのは難しいですな。障害が起きてからかなり時間が経過しているようですし……少なくとも、一時的な障害ではないと思われますが」
 いろいろ調べてみなければ、なんとも、と、医者は言葉を濁した。
「そんな暇はないんだ。一日も早くブルメシアへ帰らないと」
「ブルメシア……ですか」
 医者は、褐色の瞳を伏せた。
「遅かったようですよ。アレクサンドリアに攻め入られて、今はもう見る影もないとか」
「―――なんだって!?」
 パックはダン、っと机を叩いて立ち上がった。
「次はクレイラではないかと、専らの噂です」
「まさか……!」
「あなたがどのような方なのかはお聞きしませんが、急がれた方がいい。堅守で名高いギザマルークの洞窟も攻められ、今は無人と聞きます―――クレイラの砂嵐が弱くなっている、とも」
 パックは医者の顔を見つめた。
 なぜそんなことまで知っているのかは、聞かなかった。

 もしかしたら。

 フライヤはクレイラに行っているかも知れない。どこかで話を聞いたら、放っておくわけがない。
 彼女のことを思うと、フラットレイを連れて行くのは憚られた。
 しかし―――
「フラットレイはいつ動ける?」
「数日の安静……」
「待ってられない」
 医者は、小さく息を吐いた。
「目が覚めたら動けるようになっているでしょう。行かれるのなら、止めはしません」
 その言葉に、パックはぎゅっと拳を握り締めた。






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