Lindbulm Univ.



<1>



 リンドブルム大学に強制入学させられてしまったジタン。
 机にかじりついて勉強する、という経験もないが、それ以前に絶対向いていないと自覚している彼にとって、大学で勉強するなど辟易の極みだった。
 とは言え、それが恋人の後見人に提示された婚約の条件なのだから、呑まないわけにも行かなかったのだが。
 入学から早半年が過ぎ、同じような年頃の学友たちとも打ち解けて話すようになった。
 と言うより、持ち前の明るさで彼の方は既にすっかり打ち解けており、いくらか警戒心の強い貴族の子息などがようやく馴染んでくれた、というのが正しい。
 先の大戦の八英雄であるという事実も彼らがジタンを特別視する要因だったが、あまりに屈託ない人柄に、今ではほとんどがそのことを忘れ去っているくらいだった。
 それに、入学当初はかなり遅れていた勉強も最近では大分追いついてきていた。
 政治学の教鞭を執っているオルベルタ文相がシド大公に、「まったく驚くほど頭の切れる方ですよ」と報告したことは、本人の知らざることではあったが。



***



 アレクサンドリアには、それこそ秋に舞い散る落ち葉のごとく手紙が届いた。
 女王宛ての書簡を執務室へ運ぶベアトリクスでさえ、こっそり呆れるほどだった。
 が、週末も補習授業を受けねばならないジタンと仕事の忙しいガーネットをつなげる唯一の手段は手紙であり、二人はほんの些細な日常の出来事も余さず語りたいらしいのだった。
 それに、国内外のあらゆる箇所から届いた書簡に混じって、意外にも几帳面な字で宛名書きされた手紙が一通混じっているときの女王はいかにも幸福そうなので、ベアトリクスにとってもそれは喜ばしい役目であった。


 その頃のアレクサンドリアは、女王に集中していた権力を分散化させようと貴族議会の立ち上げが始まっており、ガーネットは貴族同士の権力争いに巻き込まれ、かなりの苦労を強いられていた。
 齢十八の女王を醜い争い事の渦中に置いてしまうことは、ベアトリクスのみならず女王側の人間たちの願わぬところであったが、ガーネットは愚痴もこぼすことなく、真摯に対応していた。
 幸いにも、女王に手を貸そうという貴族は多く、大概は貴族同士の穏便な和議が進んでいた。
 年若く麗しい女王陛下ならば、喜んでお手伝いを、と。


 ―――そう、だからこそ、あの小さな事件が起こったのである。



***



 ガーネットは、よく日の射す明るい執務室で、貴族議会法案に目を通していた。
 その横では、さっきから内務大臣がじっと控えて待っている。
 小一時間ほど、この状況は続いていた。
「バルト卿、座って待って下さっていいのよ?」
「いえ、このままで」
「でも、まだまだ時間が掛かるもの。半分も読み終わっていないのだし」
 初老でやや太めの内務大臣は、では、と恐縮しつつ腰を下ろし、胸元からハンカチを取り出して額の汗を拭いた。
 春の初めの暖かい日で、ほんの少し開いた窓から沈丁花の香りが漂っていた。
 静かな朝たっだ。
 内務大臣は、すべてのものがきちんと、収まるべきところに収まっていることに満足げだった。


 しばらくすると、執務室の扉を軽快に叩く音が響いた。
 侍従が席を外していたので、内務大臣は立ち上がり、ガーネットが目で合図するのを確認して扉を開けた。
 礼儀正しい身なりをした青年は、ここのところ毎日のように城を訪れ、法案の準備を手伝っていた若手の貴族だった。
「おはようございます、陛下。今日は大変天気がよろしいですね」
「まぁ、そうですわね」
 と、ガーネットは初めて気付いたように目を窓へ向けた。
「おはようございます、ジェダ卿。お父さまのお具合はいかがですか?」
「変わりませんよ」
 人懐っこそうなはしばみ色の瞳を微笑させ、彼は答えた。
 父親の老ジェダ卿が病を理由に隠居し、まだ年の若い息子が位を継いだのはつい一年ほど前。
 貴族たちの中では、彼が最も女王に年近いのだった。
 とは言え、十は離れていたが。
 ひとしきり挨拶が終わると、ジェダ卿は慣れた仕草で女王の側までゆき、椅子を引いて腰を下ろした。
「どうですか、法案の方は」
「ええ、今のところ何も問題ありませんわ」
 ガーネットは微笑みながら肯いた。
「でも、国への出資金が多いほど議会での持票数が多いだなんて、なんだか現金な気もしますけれど」
 ジェダ卿は笑った。
 ……笑い方が幾分かの盗賊殿に似ているので、ガーネットは密かに彼が好もしかった。
「それは仕方のないことですよ。資金を提供した分、権力を持ちたがるのが貴族ですから」
 世の中結局金なのさ、と、誰かが言いそうだとガーネットは一瞬考え耽った。
 ―――かの人のおかげで、世の中が綺麗ごとだけではないことを彼女は既に知っていた。
「しかし、女王陛下が“現金だ”なんて言葉をお使いになるとは、驚きました」
 そう言って、ジェダ卿はしばらく愉快そうに笑っていた。


 法案の読み通しは翌日も続き、すっかり疲れたガーネットはベアトリクスが運んできた午後の飛空艇便の中に見慣れた文字を見つけ、目を輝かせた。
 ベアトリクスはわざと目に付くように、しかしそれとわからぬように封書の束の二番目にその手紙を忍ばせておいたのだった。
「まめな方ですね」
 ガーネットが嬉々として手紙を開封するのを見ながら、ベアトリクスは微笑んだ。
「あの人がどれだけマメか、一緒に旅したらすぐにわかるわよ。可愛い女の子には必ず声を掛けるんだもの」
 悪戯っぽい目をしてそう言うと、ガーネットはクスクスと笑った。
「しかし、そんな悪い虫も今は治まっておられるのでしょう?」
「どうかしら。そう簡単には治らないような気がするわ」
 ガーネットは楽しげに呟くと、丁寧に折り畳まれた便箋を開いて読み耽り出し、すっかり黙り込んでしまった。


 どうにも、ガーネットは安直だった。
 なぜ自分の恋人が他の女性に声を掛けて、そんなに楽しそうにしていられるのか?
 ……ベアトリクスには永遠の謎だった。


 ジタンから送られてくる手紙は、いつも本当か嘘かわからないような冗談話で満ちており、例えば「シドのおっさんが片方の髭を間違って剃り落として、今はつけ髭をしている」だとか、「クラスメイトにトット先生の親戚みたいな奴がいて、丸眼鏡をしたとんでもない歴史オタクだ」とか。
 そして、大概必ず「宿題が多すぎる」とぼやいていた。
 時にはエーコが便箋の端に落書きしていたり、タンタラスの子供たちからトリックスパローの羽のプレゼントが同封されていることもあった。
 リンドブルムで暮らせたら、どんなに楽しいだろうかとガーネットは思った。
 法律だとか政治だとか外交だとかの話を全部放り出して、普通の女の子の暮らしが出来たら。
 しかし、それは一瞬の淡い思いでしかないのも事実だった。
 ガーネットは女王の仕事にやりがいを感じていたし、アレクサンドリアを愛していた。
 それに、自分がリンドブルムの普通の少女だったとして、あの大きな街で彼に出逢えていた確証もなかった。
 それが大前提にあったから、ガーネットは自分がこの国の王女だったことに感謝したくらいだったのだ。
 「なんでも思ったことを正直に書く」という約束をしていたので、ガーネットは一度そのことを手紙で書いて送ったことがあった。
 ―――その返事は。
「ダガーが普通の女の子だったら、政治学の試験で苦労しなくてすんだのにさぁ。オルベルタ大臣の問題、地獄よりひどいぜ」






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