<6>



「またあんたなん? いい加減にしいや」
 ルビィはうんざり顔で客人を迎えた。
「この間は、とんだ失礼をいたしましたわ」
 マルガリータは素直に非礼を詫びた。
「わたくし、勘違いしておりましたの。ああ、もう、とんでもなくとんでもない勘違いでしたわ!」
 勢いに押されたルビィは、やや引き気味になった。
「でも、あの方にお会いできてとても嬉しいですわ! こんなに興奮してしまいましたもの」
「せ、せやな。あんた興奮しすぎやわ。ちょっと落ち着いた方がええで」
「とにかく!」
 マルガリータはますます瞳を輝かせ、ルビィににじり寄った。
「ジタン様にお伝えいただけませんか? わたくし、あの方にお会いしましたわ。それで、いろいろなことが全部わかってしまいましたの。とてもとても、信じられないほど素敵な方ですもの! わたくし、お二人のこと心から応援申し上げます!」
 一息でそれだけ言ってしまうと、マルガリータは「それでは」と可愛らしくお辞儀して、一目散に走っていってしまった。
「なんやの、あの子……元気やなぁ」
 その背を見送りながら、ルビィは呟いた。
「しっかし」
 と、カードゲームで一抜けしたブランクが戸口へやって来た。
「また勘違いしてるんじゃねぇか? あの方ってどの方だよ」
「せやけど、女の勘てのはよう当たるんやで」
 ルビィが不敵な笑みを漏らし、ブランクは一瞬たじろいだ。



***



 人の気配を感じて、ジタンは目を開いた。
 目の前には、タオルを握った手。
 夕闇迫った室内という暗がりで、彼はその手を如実に描写した。
 白い手だ。あまり大きくない、すらりとした女の子の手。
 けど、ルビィのじゃない。
 しかも、よく―――とてもよく見知った手だ。
 記憶と現実がある一点で交わり、彼は一つの答えを導き出した。
 途端に、彼はガバッと起き上がった。
「ダガー?!」
 白い手の主はタオルを握ったまま、少しだけ驚いた顔をした。
「あら、起こしちゃった?」
 小首を傾げ、彼女は尋ねた。
 刹那、ジタンは混乱の境地に陥った。
 この世で一番愛しい彼女が、このリンドブルムに、しかもむさくるしいアジトに、いるわけがない。
 これは幻だ。
 熱に浮かされて、ついに見えるはずのないものが見えるようになったのか……?
「大丈夫?」
 と、ガーネット(の幻)は心配そうに彼を見つめた。
「……ダメかも」
「まぁ、寝てた方がいいわよ」
 ガーネット(の幻)はご丁寧に布団を掛け直してくれた。
 そして、今度こそ手に持っていたタオルをジタンの額に乗せ、彼女は満足げに微笑んだ。
「ねぇ、知恵熱って本当なの?」
 微笑む黒い瞳に、いたずらげな光が浮かぶ。
「子供の頃から、考えすぎると熱出してたんですって、ジタン?」
 ―――誰かが余計なことを喋ったらしいと、ジタンはぼんやり考えた。
 ……幻相手なら何を喋ってくれても構わないけれど。
「あなたが寝込んでいるって、ブランクたちが知らせてくれたのよ。みんなでわたしを迎えにアレクサンドリアまで来てくれたわ。誰にも知られないようにリンドブルムまで行こうってことになってたんだけど、ベアトリクスに見つかってしまって」
 と、彼女はクスクス笑った。
「ベアトリクスったら、『どうせリンドブルムまで行かれるのなら、公式訪問ということにしてゆっくりなさっては?』なんて言うんだもの、みんなびっくりしてたわ。それで、わたしはリンドブルム城に寄っておじさまに事情をお話してから、こっちへ来たの」
 楽しげに話すガーネットを、ジタンはまじまじと見つめた。
「ダガー」
「何?」
「……もしかして、本物?」
 ガーネットは数度瞬きすると、思い切り吹き出した。
「当たり前じゃない、何に見えるの?」
「……幻」
「まさか。本物よ? ほら」
 と、彼女は彼の手を取り、自分の頬に当てた。
 確かに、そこには求めていた温もりがあった。
 どうしようもないくらい、ずっとずっと求めた温もりが。
「でも」
 ジタンは慌てて手を引っ込めると、もう一度起き上がった。
「どうして……」
 と言ったきり次の言葉が見つからなくなり、ジタンは押し黙った。
 ―――どうして、オレのところになんて来たんだ?
 なんて、いかにも負け犬らしすぎた。
「どうして、何?」
「どうして……ここにいるのかと思って」
「さっき説明したじゃない」
「そうじゃなくて」
 伏せられた青い瞳の意味に気付き、ガーネットは小さく息を吐いた。
「ジタン、あの話を信じたの?」
「……信じたわけじゃないけど」
「でも、気にしてるのね?」
 彼は肯きさえしなかったものの、黙して肯定を表した。
「ジタン! おばかさん。わたしが他の人と結婚するわけないじゃない」
「だけどさ。そういうできるヤツの方が、オレなんかよりずっとダガーの支えになるだろうって……思って」
「まさか」
 ガーネットは事も無げにあっさりと否定した。
「わたしが支えて欲しいと思うのは、あなただけよ、ジタン」
 黒い瞳は真っ直ぐに彼を見つめた。
「わたしが支えたいと思うのも、あなただけ。誓って言えるわ―――それだけは、永遠に変わらないって」

 何年か前。  たった一人ですべてを終わらせようと決心したあの時。
 最後に彼を留まらせたのは、彼女の、真実の言葉だった。
 彼女の、蕾のような唇から紡がれる言葉はいつも、彼の心に明かりを灯した。
 永遠に、消えることのない明かりを。

 ジタンは腕を伸ばすとガーネットを抱きしめた。
「ごめん、疑ったりして」
「いいのよ。わたしこそ、あなたに心配かけちゃってごめんなさい。こんなに、熱が出るまで悩むなんて……」
 と、ガーネットは不意に顔を上げた。
「それで、他にはなにを悩んでいるの?」
 彼女は、かなり愉快そうに笑いながら尋ねた。
 ジタンは途端に渋い顔になる。
「何でもいいだろ?」
「だって、三つ悩みがあると寝込んじゃうんでしょう? あと二つは何?」
「……一つはダガーも知ってる悩み」
「宿題?」
「そっちじゃなくて」
「ああ、政治学?」
「……うん」
 嗚呼、思い出してもイヤになる先週の試験。
「でも、どうして? 今日オルベルタ大臣に会ったけど、あなたのこと褒めてたわよ。この間のテストも一番だった、って」
 へ? と、ジタンは口を開けたまま一瞬固まった。
「なんで? 62点しか取れなかったのに」
「まぁ、ジタンったらすごいじゃない!」
 ガーネットは感嘆の声を上げた。
「オルベルタ大臣のテスト、50点取れない問題って有名なのよ。知らなかったの?」
「……そ、そうなの?」
「そうよ。毎年学生泣かせの教授ナンバーワンだもの」
 数度瞬きを繰り返すと、なんだぁ、と、ジタンは安堵のため息をついた。
「もう、ジタンったらそんなこと悩んでたの?」
「だってさぁ……政治学で劣等生じゃダガーの力になれないと思って」
 おかげでガーネットは、たっぷり一分は笑った。
「テストでいい点が取れたら政治がうまくできると思ったの? トット先生がよくおっしゃってたけど、暗記するより理解することが大事だって。興味を持って勉強できるんなら、テストの点数が悪くたっていいじゃない」
「よくはないだろ。あんまり悪いと単位落とすし」
「そうね」
 ガーネットはまだ笑ったまま、肯いた。
「そういえば」
 不意にガーネットは笑うのをやめ、
「今日、お城の図書室で女学生さんに会ったわ。あなたと同じクラスみたいよ?」
 ジタンはギクリ、とまるで音がしそうな勢いだったが、さりげない様子を装った。
「彼女もエイヴォン卿が好きみたいだったけど……ねぇ、ジタン」
「何?」
「あの子、とんでもなくあなたのファンね」
 思い出しただけで頭の痛いファンだ、と、ジタンは心の中で呟いた。
「でもね、ルビィが話してくれたけど」
 ガーネットは、マルガリータが「二人を応援する」と息つく間もなく喋り通していったことを話して聞かせた。
「そっかぁ……」
 ジタンはほっと息を吐いた。
「でも、寂しいんじゃない? せっかくあなたに好意を寄せてくれる人ができたのに」
「まさか。やっと開放されて嬉しいよ。……あ、でも」
 と、ジタンは眉を顰める。
「これからまた、違う意味でうるさいかも……」
 幾分げんなりしたジタンは、しかしそれでも幸福な気分だった。
 在学中は会うことを許されそうもなかった恋人と、久方ぶりにゆっくり話ができたのだから。






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