<3>
家へ帰り着くと、すっかり困り果てたような顔の母が迎えてくれた。
「ベアトリクス、あまり気を落さないで頂戴ね」
恐る恐るといった風に、彼女は娘にそう言った。
返事も出来ず、ベアトリクスは自室へ逃げ込んだ。
扉を閉め切ると、その場に崩れた。
泣いても仕方ないとわかっているのに、瞳からは次々と涙の粒が溢れ出てきて。
……感情の渦が絡まって、もう何が理由でそんなに哀しいのかもわからずに。
負けたことは悔しい。
剣を置かねばならないことも悲しい。
でも。
辞めるな、と言われたことが、一番堪えているような気がする。
負けた相手に、辞めるな、と。
……しかし、辞めないわけにはいかなくて。
もう、自分にはどうしようも出来ない。
ずっと、剣を握っていたいのに―――!
「ベアトリクス、お父様が呼んでらっしゃるわ。出てきて頂戴?」
母が、扉越しに呼んでいる。
しかし、返事など出来るわけもなく。
「ベアトリクス? 聞いているの?」
ただ、嗚咽だけが喉元を通り過ぎた。
―――不意に、静かになる。
廊下を歩く足音が遠ざかり、再び独り、奈落に取り残された。
重い心と体で、引き摺るように生きねばならない。
拷問のようだ。
切り裂かれた方が、まだましだった。
「ベアトリクス」
突然、父の声が彼女を呼んだ。
ベアトリクスは、びくりと体を震わせた。
「聞いているか? 話がある」
……結婚の話なら、今は聞きたくない。
耳を両手で塞ごうとして。
「ちゃんと聞きなさい。逃げるんじゃない」
まるで、その行動を見透かされたかのように窘められる。
「昨日の約束は、覚えているな」
聞きたくない。
「お前は、約束を違えるような性格ではない」
―――聞きたくない。
「お前が傷ついているのは良くわかっている。あれだけ打ち込んできた剣で負けてしまったのだからな」
―――聞きたく、ない。
「……このまま、観念して辞めるのか?」
―――……。
え?
「一度負けたというだけで、もう逃げるのか」
ベアトリクスは思わず立ち上がった。
「お前は、負けたまま辞めるのか?」
扉を開けると。
父は、彼女をじっと見た。
―――きっと、ひどく泣き腫らした目をしてる。
どうしよう、恥ずかしい……。
「気に病むことはない。負けたら泣けばいいのだ」
と、滅多にないほど優しげな声。
「今日の試合は何だ。気が散ったまま剣を握っていたであろう。あれでは、例え相手が赤子であっても負けを喫していたぞ」
「すみません」
俯いたベアトリクスに、父は軽く溜め息をついた。
「お前はまだ幼い。剣士としては一人前でも、まだ子供だ」
「―――はい」
ベアトリクスは小さく頷いた。
「もっと強くなれるな、ベアトリクス。お前はこれで終わりの人間ではないのだろう?」
「父上……?」
「鍛錬しろ。心を鍛えるのだ。そうしなければ、真に強い剣士にはなれん」
「父上?」
つまりは。
「辞めろと、おっしゃらないのですか?」
「言わぬ」
「な、何故……?」
「―――今日、負けたお前を見て思ったのだ。このまま終わらせてはいけない。お前が駄目になる、とな」
「父上……」
「続けなさい。満足できるところまでやってみなさい。私はお前を後押ししてやりたいと思う」
「―――本当ですか?」
「嘘を言ってどうする」
父は、笑った。
気持ちの良い笑い方で、ベアトリクスの心に在った様々な暗い感情を、全て押し流してしまうほどだった。
「ありがとうございます、父上」
「まったく、お前が勝っていたら逆に辞めさせようと躍起になっていたかも知れないのだからな」
人生とは、わからぬものだ。
そう言うと、父は彼女の頭に手を乗せた。
「まだ、娘でいてもらっても罰はあたらんだろう。結婚など、先のことでよい」
「父上、昨日とおっしゃっていることが真逆ですが」
「そう揚げ足を取るでない。気が変わるぞ」
「そ、それは困ります!」
冗談だ、と笑うと、夕餉の時間だと言って、父は去っていった。
ベアトリクスの胸の内には、もう凄まじいまでの痛みは残っておらず。
暖かい、心地よい風だけが吹いていた。
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