Lacrymosa



<1>


「まだ来ぬようじゃな」
 フライヤは火の祠の入り口から空を見上げた。その場所だけは、朦々と籠もる熱気からどうにか逃れられるだけの風が通っていて、一面空が見えた。しかし、ヒルダガルデ3号の姿はまだどこにも見えない。
「ふん。どうせまたボサッとしてるんだろ」
 サラマンダーは壁に凭れ、腕を組んだままぶっきら棒にそう言った。
 フライヤは振り向くと、少し微笑んだ。


 いつもはぼそぼそと覇気のない声で喋るというのに。


―――下がれ、フライヤ!


 初めて名を呼ばれたのだと、気付いたのは戦いが済んだ後だった。


 彼の中で何かが着実に変わり始めていることは確かだった。そうでなければ、自分を庇ったりしなかっただろう。
「さっきは危ないところじゃった。恩に着るぞ」
 フライヤが礼を言うと、サラマンダーは気まずそうに顔を背けた。自分の行動が自分でも思わぬことだったのか、ただ照れているのか。
「……お前がやられれば、面倒なことになると思っただけだ」
 サラマンダーはぼそぼそと、言い訳のような言葉を呟いた。



 長い間追い求め続けたかつての恋人は、彼女のことを忘れ去っていた。
 フライヤの胸には、そのことが未だ燻ったまま、まるで暗雲のように立ち込めていた。
 引き止めていれば、一緒に行くと言っていれば、早く探し出すことができれば。或いは変わっていたかもしれないのに。
 これからどうすればいいのか。そのことを考え出すと、フライヤは酷く心許ない気持ちになった。
 考えても仕方のないことだということはわかっていた。妙な巡り会わせでアレクサンドリアのガーネット女王に加担することになり、今はクジャという男の奇行を制するため、こうして仲間たちと行動を共にしていた。
 でも、戦いが終わった後のことは何も考えられなかった。
 ―――もし、クジャと刺し違える必要があるのなら。その役目は、私が負わねばならぬだろう。
 フライヤはそう思っていた。故国のことは気がかりだったが、他には何も思い残すことなどなかった。ジタンはまだ若く、ガーネットは国を背負う立場。エーコもビビも幼子であり、スタイナーはガーネットを守り立ててゆく立場がある。クイナにその重荷を負わせるのはたぶん無理だろう。サラマンダーは、他人事にそこまで必死にはなるまい。
 フラットレイはブルメシアに戻るだろうか。そうなれば、自分が戻らずともあの国は立派に立ち直るに違いないとフライヤは思った。
 そう確信してから、フライヤは気持ちが楽になっている自分に気付いた。
 フラットレイが戻ったブルメシアに帰ることを、辛抱できる自信がなかった。



「何を考えている」
 相変わらず、飛空艇はまだ戻っていなかった。
 黙って考え続けていたフライヤは、目の前に焔の色を認めて少し驚いたように顔を上げた。
「特には、何も」
「嘘を言え」
 サラマンダーの目が不快そうに細くなった。
「死にたがってる奴の目をしてるぞ」
「まさか」
 フライヤは鼻を鳴らした。正確に言えば誤解ではあったが、彼の指摘はあながち間違ってもいなかった。
 はぐらかしても無駄だろうとフライヤは思った。第一、はぐらかしてどうしようというのか?
「そうではないのじゃ……ただ、もしクジャという男と刺し違える必要があるのなら、私が適任ではないかと考えておっただけじゃ」
「馬鹿なことを言うな」
 サラマンダーは、いつものぼそぼそと覇気のない声ではなく、さっき鋭くフライヤを呼んだのと同じ声で咎めた。
「そんな必要はねぇ」
「わからぬではないか。相手はあれだけ強大な力を操る男。何が起こるか……」
「そんなことにはさせねぇ」
 気付けば、壁に両手を縛り付けられていた。フライヤは身を捩って逃れようとしたが、動きを封じることに関してはサラマンダーの方が上手だった。
「サラマンダー、おぬしらしくもない。私がどうなろうとおぬしには関わりのないことではないのか?」
 フライヤは嘲るようにそう言った。その言い回しで、腕を離すよう婉曲に訴えたつもりだった。心を強く持っておかねば、彼女を支えている全てのものを攫われてしまいそうなほど、サラマンダーの目は燃えていた。
「仲間なら……関係ないってことはねぇだろ」
 やがてフライヤの望み通り、サラマンダーは両腕の拘束を解いた。
「そんな覚悟は認めねぇからな」
 ふ、とフライヤは笑った。そのセリフは、あまりに彼らしくなさすぎた。
 ジタンが彼を変えたのだ、とフライヤは思った。
 ―――力の使い道を探すことから逃げて、強い相手を探すことばかりしていた。
 サラマンダーは過去の自分を顧み、未来の自分を探し当てたのかもしれない。


 過去も自らの糧として生きてゆくこと。


 逃げることは、確かに彼女の信条に反した。
「わかった。同胞との約束通り、全てが終わったら故国に帰るとする」
 サラマンダーはまだ何か言いたげにフライヤを見ていたが、飛空艇のエンジン音が響いてきたため、会話はそこで終わった。


 しかし、それから二人の関係は思わぬ方向へと傾いていった。






 インビンシブルの窓から霧しか見えない景色を眺めていたフライヤは、背後にサラマンダーが立ったのを感じて振り向いた。
 未だに気配を消す癖があるが、フライヤにはどうしてか彼の行動がよくわかった。
 サラマンダーは、窓の外を見ながら
「気味が悪ぃな」
 と、ぼそりと呟いた。
 テラの滅亡で全てが終わった訳ではないだろうことは、フライヤもサラマンダーも同意見だった。恐らくこのガイアとも心中しようとするに違いないと、二人とも思っていた。
 帰って早々彼らを迎えたのは、星一面を覆う、霧。
 このままでは終わらないことを証明するような、真っ白な世界だった。



「それじゃ、明日イーファの樹に突入するってことで、今日はゆっくり休もうぜ」
 戦いの傷跡深いアレクサンドリアにインビンシブルで乗り付けるのは気が引けた。かと言って、明日突入となればリンドブルムに停泊しても騒ぎになるだろう。
 一行はマダイン・サリで補給を行い、そのまま一泊することにした。
 モーグリたちは歓迎してくれたし、なぜか例の女賞金稼ぎが居候しており、彼女も明日旅立つというメンバーたちの準備を手伝ってくれた。
 皆、出発前の時間を思い思いに過ごした。ガーネットとエーコは召喚壁へ行き、全員無事で帰れるようにと祈りを捧げた。ジタンとビビと、スタイナーも付いて行った。クイナは川で魚を釣り、フライヤは宿舎代わりの小屋で武器の手入れをしていた。
 サラマンダーは相変わらず気配を消したまま現れた。
「なんじゃ」
 フライヤは顔も上げずに答えた。微かに、サラマンダーが驚いたような素振りをした。
「落ち着かぬのか」
「……そっくりそのまま返す」
 ふ、とフライヤは笑った。
「ここに座ればよいではないか」
 少し座位をずらして、彼が座れるだけのスペースを空けてやる。サラマンダーはしばらく黙って突っ立っていたが、やがてそこへ腰掛けた。
「先のことを考えても仕方がない。帰ってこられるかどうかはわからぬが、やるしかないのじゃ」
 サラマンダーがそんなことを懸念していることはないとは思ったが、フライヤは自分に確かめるようにそう言った。
「お前はそれでいいのか」
 フライヤは顔を上げた。陽はかなり傾き、ほとんど真っ暗になりかけていた。サラマンダーは、逆光の中で彼女を見つめていた。
「何故じゃ?」
「昔の男のところへ帰るんだろうが」
「……フラットレイ様のことか?」
 サラマンダーは黙して肯定を示した。
「何故、おぬしがあの方のことを……」
 彼にそのことを話したことがあったか、フライヤは反芻してみたが思い当たらなかった。しばらくして、その答えはサラマンダーが明かした。
「あいつが勝手に喋ったんだ」
 フライヤは数度瞬きしてから、冗談めいた笑みを口元に乗せたまま、溜め息をついた。
「まったく、お喋りな男じゃ」
 サラマンダーは何も言わなかった。
「フラットレイ様のところへは帰らぬ……否、帰れぬ」
「どうして」
「聞いたのじゃろう? あの方は私のことなど忘れてしまわれたのじゃ」
 チク、と胸の奥が疼いた。本当に忘れてしまったのだ。声に出せば出すほど、真実になってゆく。
「お前も忘れたのか?」
 サラマンダーの声は闇に溶けるように、低く小さく響いた。
「忘れたいと……思うてはおる」
 フライヤの声も、囁きのように細くなった。
「しかし、忘れることで解決にはならぬであろう。全てを糧として、これからの人生を生きてゆくしかないのじゃ」
「何でも、選択肢がないんだな、お前は」
 フライヤは口を噤んだ。
 こんな話を仕掛けてくる、彼の意図が掴めなかった。
「おぬし、何が言いたいのじゃ」
「……何でも単刀直入だな」
 サラマンダーは呆れたような溜め息をついた。
「悪いか。幼き時より真っ直ぐに生きることを求められてきたのじゃ。今更斜に構えたおぬしになど、合わす気はない」
 フライヤが幾分むっとして言うと、サラマンダーは鼻で嘲笑した。
「なら、俺が真似するか」
「え?」
 気付くと、フライヤは右手に握っていた槍を取り上げられ、壁際に追い詰められていた。あっという間の早業だった。
「お前が欲しい」
 取り上げた槍を床に捨て置き、サラマンダーはそう囁いた。
「な、何を! おぬし血迷うたか!?」
「さあな、自分で確かめろ」
 フライヤの両膝の間に、サラマンダーは自分の足を割り入れた。
「お前を、天国まで連れてってやる」
 そうすれば、全てを忘れることができるのだから。


 ―――記憶を、塗り替えてしまえ。



***



 始めは抵抗を示していたフライヤも、やがて四肢の力を抜いてされるがままになった。
 人生で誰にも――フラットレイにさえ――触れさせたことのないところに指が伸びると、フライヤは目を閉じ、甘んじてその仕草を受入れた。

 忘れてしまいたいと、思っていた。

 一瞬でも忘れることが出来るなら、それで胸の痛みから一瞬でも逃れられるなら、恥も外聞もプライドも全て捨てて、身を委ねてしまいたかった……例え、それが神に許されざる行いであろうとも。
 人生の終焉が訪れた時、そのことを許されず地獄へ行けと言われたとしても、きっと後悔しないだろうとフライヤは思った。
 宿舎代わりの部屋なのだから、誰か戻ってくるかもしれなかった。それでも止まらなかった。
 ……それでも止まらないのは、同じだったのか?

 フライヤは細く息を吐いた。

「なんで暴れねぇんだよ」
 サラマンダーがぶっきら棒に忠告した。
「……今更言うな。おぬしから仕掛けたのじゃぞ」
 そう言われれば、彼には返す言葉もなかった。



 夜はすっかり辺りを包み込んでいた。子供たちの誰かが帰ってくれば大事になる。フライヤは身を起こすと、無造作に散らばった自分の服を掻き集めた。
「フラットレイとかいう男は……恋人だったんじゃないのか」
 サラマンダーも起き上がると、物憂げにそう問うた。
「何故じゃ」
「……」
 言わんとしていることを理解し、フライヤは小さく笑った。どこにも行き場のない笑いだった。
「まだ、子供じゃったからな」
「悪かった」
 随分と殊勝な言葉が漏れたものだと、フライヤは意外そうに焔の色を見上げた。
「私が抵抗せなんだ。そういうのを『合意の上』と言うのではないのか?」
 サラマンダーは、もう何も言わなかった。





 そして、戦いは終わった。





「おぬしに頼みがある」
 フライヤはそう言った。
「私は故国再興のため、国へ戻らねばならぬが……気がかりなのじゃ。ダガーの側にいてやってはくれぬか」
 「必ず帰る」と約束した想い人が――正確に言えば、ジタンはそれを約束したわけではなかったが――いくら待っても帰ってこないという、哀しみ。
 それは、かつてフライヤにも訪れ、そして去って行った哀しみと同じものだった。
 重なったのだ。フラットレイを待ち続けた十六歳のフライヤの姿と、イーファの樹を見つめ続けるガーネットの姿。
 その想いは、痛いほどに共感できた。
 サラマンダーに頼んだのは、たぶん意識的だったのだとフライヤは思った。その哀しみに、無謀にも斬り込んできた男。


 そして、サラマンダーはアレクサンドリアへ向かった。


 まるで、何もなかったかのように二人は別れた。






NEXT     Novels     TOP