<2>


「フライヤさん!」
 駆け寄ってきた兵たちに、フライヤは微笑みかけた。
「よくぞお戻りで」
「ご無事で何よりです」
「おぬしたちこそ、みな息災か?」
 ブルメシアには数ヶ月ぶりに民が戻り、まだ活気が戻ったとは言い難いものの、少し前の死んだような街から比べれば見違えるように賑わっていた。
「フラットレイさんも戻っておいでなんですよ」
 幾分興奮した口調で、一人がそう教えてくれた。
「何でも記憶をなくされたとかで、パック王子が連れて帰られた時には皆驚きましたが、こうして故国のためにまた働いてくださっています」
「そうであったか……すぐにご挨拶をせねばの」
 フライヤの目は、僅かに動揺していた。
 平静のままで再会できるだろうか。あまりにも長い間に、あまりにも色々なことがありすぎた。
「あ、丁度良い。フラットレイさん!」
 呼ばれた本人は、通りの向こうから片手を挙げた。
「フライヤさんが戻られたんです」
「ああ、それは良かった」
 無駄のない動きですぐ側まで来ると、フラットレイとフライヤは形ばかりの挨拶を交わした。
「お戻りになっていらっしゃるとは……」
 フライヤが呟くと、
「私は竜騎士。故国の再興に力を尽くすことは当たり前のことだ」
 と、フラットレイは感慨のない声で答えた。


 雨は止むことなく降り続いていた。


 降り続く雨の中、毎日毎日僅かずつ積み重なるように、ブルメシアは蘇ろうとしていた。
 フラットレイの統率力は衰えていなかった。自然と、彼を中心に、フライヤを参謀としたチームが結成されていた。
 どうしても、どんなに振り払おうとしても、やはりフラットレイを頼りにしてしまうことをフライヤは感じていた。彼がこの国に舞い戻ってくれたことを感謝しない日はないほどだった。
 フラットレイの隣に立つと、かつてそうであったように、気が引き締まるのを感じた。凛と一人立つことで、自分の存在を彼に知らしめたかったあの頃。
 この人しかいないのだ、と。どんなに否定しようとしても、心は真っ直ぐその答えを出そうとした。



「パック殿から、おぬしは私の……その、許婚であったと伺った」
 ある時、フラットレイがぽつりとそう言った。
「長い間待たせたのだとか―――」
「もう、良いのです」
 フライヤは頭を振った。フラットレイのせいではなかった。フラットレイがどれだけ約束を果たしたがったとしても、失われた彼の記憶はそれを許してはくれなかったのだ。
「しかしパック殿は、私が悪くてそうなったのだと仰っていた」
「誰のせいでもありませぬ」
 フライヤはフラットレイを見た。フラットレイもフライヤを見た。
 どうしようもなく彼に惹かれている自分を、フライヤははっきりと認めた。そしてまた、フラットレイも自分に惹かれているのだということが、確信となって彼女の心に舞い降りた。



 嗚呼、神様―――



 口付けを交わした瞬間、フライヤの脳裏にはなぜか、焔の色が舞った。
 許されざる、罪の色。

 ぐっと肩を押され、フラットレイは我に返って身体を起こした。
「すまぬ……気を害したか?」
 フライヤは腕を突っぱねてフラットレイと自分の身体を引き離していた。
「そうではありませぬ」
 無意識だった。フラットレイに愛されているのだという幸福感は、何故か一瞬激しい絶望感に摩り替わった。
 酷く気分が悪くなって、フライヤは僅かに屈み込んだ。
「すまなかった。急ぎ過ぎたようだな」
「いえ……いえ、フラットレイ様」


 誰かに許しを請うのだとしたら。
 それは―――誰に?


 ―――貴方様を、お慕いしております。
 フライヤは聞こえないほど小声でそう告白した。






 近くの村へ木材を買いに行くと言うグレイに、フライヤは同行を申し出た。
「一人では手一杯なので、ありがたいです」
「向こうで少し、私用を片付けたいのじゃが」
「構わないですよ。買い物ですか?」
 フライヤは曖昧に微笑んだ。


 初めてフラットレイに口付けられた後、部屋へ駆け込むとフライヤは吐いた。絶望感が胸を覆いつくし、苦しくてたまらなかった。
 脳裏には、ある種の予感が過ぎっていた。
 それを確認しなければならなかった。


 人の良さそうな丸顔の医者は、小さな眼鏡の奥から穏やかに微笑んだ。
「ご懐妊ですね」
 そうかもしれないという考えは常に心にあったが、実際こうしてはっきり断言されると、やはり動揺を隠しようがなかった。
「三ヶ月目ですね。大事な時期ですから、栄養と体調に十分留意してください」
 通り一遍な説明を受けながら、フライヤの心はそこにはなかった。


 戦いが終わって、丁度三月が過ぎようとしていた。


 待ち合わせの場所に現れたフライヤの様子は明らかにおかしかったが、グレイは何も言わなかった。
 何かあったのだろうが、立ち入るのは憚られた。それほどに、フライヤは気高く、孤高の人であった。



 どうすればいいのか。ブルメシアに帰り着くと、フライヤはやっと冷静さを取り戻し始めた。
 彼女は静かに考えた。
 この子の父親は、あの男だという事実。
 大分再興が進んだとは言え、傷跡深いブルメシアで指揮的役割を果たしている自分が身籠っていることが発覚すれば、同胞にどれだけ迷惑がかかるか。
 それに。フラットレイは。
 彼の子であるはずは、決して有り得なかった。
 このことを知ったらどうなるだろうか。
 彼はなんと言うだろうか?


 どうしようもなく、その答えを知りたい気がした。


 そして、その後ろ暗い望みは時を置かずして叶ってしまうことになる。
 フラットレイはフライヤを部屋に呼んだ。雨の夜で、土の匂いが街一帯に立ち込めていた。フライヤは肌が冷えないようにと薄掛けを掛けていた。酷く静かな夜だった。
 あの日以来、フラットレイは積極的な態度に出てくることはなかった。それはフライヤを安心させ、また不安にさせた。フライヤはこの日が来ることをいつも恐れていた……こうして、闇を忍んで彼の元へ行く日が来ることを。
 彼のことだ、訳を知れば無理強いすることはないだろうが、それには彼女の状況を説明せねばならなかった。そしてそれは、彼と彼女の間に、永遠の溝を掘る行為だった。
 黙っていることは出来ないかとフライヤは考えたが、その考えは瞬時に頭から追いやった。
 ―――そんなことはいけない。ブルメシア人と人間のハーフが生まれればすぐにわかってしまうこと。そんな卑劣なことをしては……神は、本当に私を許すまい。



「フライヤです」
 部屋の扉を数度叩き、フライヤは名を告げた。
「お入り」
 フラットレイの部屋は僅かな明かりのみが灯り、薄暗かった。窓際に座っていたフラットレイは、これ以上ないくらいに廉潔な笑みを浮かべて、彼女を迎え入れた。
「よく来てくれたね」
 その言葉に、答える術を彼女は持たなかった。
「おいで」
 手を取られ、寝台へ誘われる。フライヤの喉は引き攣ったように言葉を発することが出来なかった。


 このまま。
 このままこの腕に抱かれて、一生をこの腕の中で暮らして―――


「フラットレイ様」
 フライヤの声は震えていた。
「恐がらなくていいんだよ」
「いいえ、恐がってなどおりません」
 本当は恐い。恐くてたまらない。
 これから起こることが、恐くてたまらない。
「でも、震えている」
 フラットレイは自然な仕草でフライヤの肩掛けを落とした。


 それが、合図だった。


 フライヤはやんわりと抗い、その意外な行動にフラットレイは目を丸めた。
「フライヤ?」
「私は、生娘ではありません。恐いことなど何もありません」
 軽い衝撃を受けたように、フラットレイの双眸が揺れた。
 しかし、一度瞬きすると、そこには新しい情熱が宿っていた。
「では、それが知れるのを恐れていたのか?」
「……いえ」
「では?」
 触れようとする指先を諌め、フライヤは頭を振った。
「お止めください」
「止めない」
「私は……!」


 それが、神の与えた罰なのだろうか。
 そうだとしたら、あまりに甘く、あまりに残酷だった。


「……なんと、言った」
「妊娠しております、と」
 半ば寝台に押し倒されるようになっていたフライヤの身体から、それを拘束していたフラットレイの腕が外れた。
「どうして……」
 彼は呆然としていた。
「フラットレイ様、私は貴方様と婚儀を交わすことは出来ませぬ」
「では、その相手と?」
「いえ」
 フラットレイはフライヤの顔を見つめた。
「いいえだと? どうして」
「相手は、このことを存じませぬ」
「何故知らせない」
 その問いに、フライヤはどうしてか酷く蓮っ葉な口調で答えた。
「一夜限りの相手だったからでございます」
 そんな台詞を、自分の口から発することがあるなどと、どうして思っただろう?
「フライヤ……!」
 効果は想像通りだった。
「それならばおぬしは」
「子供は、一人で生み、一人で育てようと思います」
「ならぬ!」
 フラットレイは頭を振った。
「そのようなこと、騎士として働くなら……」
「槍は、置きます」
「フライヤ!」
「ブルメシアも出てゆきます。身体が許す限りは何とか皆の力になりとうございますが、人知れず、どこかでこの子を」
 フライヤの細く白い指が、自分の下腹部をゆるりと撫でた。
「一人で、生みます」
「いけない、フライヤ」
「いいえ」
「フライヤ……!」
 フラットレイは感極まったように彼女を掻き抱いた。フライヤはされるがままになりながら、色々なことを思い出していた。
 フラットレイに憧れて、憧れて、仕様のなかった幼い日々。国を出て行ったかの人。戻らぬ人を待ち続ける日々。探し続ける日々。そして。
 「忘れた」と言われたあの日。
 何もかも終わったのだと思った。全てが過去のものになったのだと。
 どこかで、安堵している自分が在ることをフライヤは感じた。


 十分後、フライヤは暇を告げて部屋を出た。
 フラットレイは、俯いたまま夕べの挨拶もままならなかった。






 翌朝、フライヤは部屋の前に人影があるのを認めた。黙ったまま、彼はじっと彼女を見つめていた。
「フラットレイ様……」
 二人とも何も言うべき言葉が見つからないようだったが、やがて、フラットレイが決心したようにささやかな声を発した。
「フライヤ」
「はい」
「私が、おぬしを守る。心配はない」
 思わぬことを言われ、フライヤは目を見開いて彼を見つめた。
「おぬしの気持ちはわかっておる。おぬしが望むなら、これ以上」
 と、二人の間の距離を目で追い、
「近付くことはせぬ。だが、おぬしには守り助してくれる者が必要なのではないか? 私に、その役目をさせてはもらえぬだろうか」
「しかし……!」
「一人で苦しませたりはせぬ」
 フライヤは眩暈を覚えた。
 一体、何年の間『一人で苦し』んできたのだろう?
 それを、させないとかの人は言うのだ。
「甘えることは出来ませぬ」
「おぬしがどう言うても、私は決して引かぬ」


 そして、彼は本当に引かなかった。


 雨は相変わらず降り続いていた。フラットレイはいつもフライヤの側にいて、彼女が無理をしないように、体調を崩したりしないように、気を配っていた。
 結婚するのではないか―――と。そんな憶測がブルメシアを覆っていた。そうなればいいと思っている者も少なくはなかった。
 フライヤの心は凪いでいた。フラットレイに守られて暮らすなど、なんと甘やかな現実だろうか。しかも、彼は彼女に何も求めようとしなかった。その優しさが、フライヤの心を更に穏やかにさせた。
 彼女の胎内では新しい命が着実に育まれ、成長していた。
 時折ふと、フライヤはそれがフラットレイと自分の愛の結晶であるような錯覚さえ覚えるほどだった。
 本当にそうであったなら良かったと、思わずにもいられなかった。
 しかし頭の片隅で、こんな幸せは現実のものではあり得ないのだということもわかっていた。
 例えそうだったとしても―――再びフラットレイが自分を見限って去っていったとしても、もう前ほどは傷つかないだろうという、妙な自信もあった。
 もう、一人ではないのだ。






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