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「フライヤさん! 来て下さい!!」
激しい呼び声に、フライヤは顔を上げた。
「モンスターが街に!」
「何じゃと……!?」
執務机から立ち上がる。
雨はますます降り続き、街の外れで川が決壊したとかで人手は出払っていた。
モンスターが街に紛れ込むことは珍しいことではなかったが、未だ兵の数もままならないこの国にはいつも大きな痛手を残した。
「すぐに参る!」
フライヤは左手で槍を掴むと、部屋を飛び出した。
モンスターは大群を成して雪崩れ込んでいた。それも、王宮のすぐ側まで来ているではないか!
数頭を薙ぎ払いながら、伝達に走ってきた兵に、川の決壊を視察に行ったフラットレイの一団を呼び戻すようにと告げた。
「しかし、フライヤさんお一人では……!」
「何とかする、こっちは大丈夫じゃ。さぁ、早う!」
兵が心配そうな顔で、それでも言われた通り走り去っていくと、フライヤは小さく息を吐き、精神を統一した。
逃げ惑っている民を家の中へ誘導し、自らは槍で切り込んでいく。
一人で全て片付けてしまえるような数ではなかった。とにかく人の住む地区から引き離そうと、フライヤはモンスターの注意を引きつつ、街の外れへ、外れへと向かった。
「さぁ、私が相手になるぞ! こっちじゃ!」
零れた数頭を残っていた兵たちに任せ、フライヤは高くジャンプして郊外へ向かった。咆哮が上がり、大群がフライヤの後を追う。
街から離れたところで着地した瞬間、フライヤは一瞬腹部に痛みを感じた。咄嗟に手を当て、眉を顰めた。嫌な予感が胸を掠める。
しかし、彼女にどうすることが出来ただろうか?
死闘は、フラットレイの一団が戻るまで、そして、フライヤの気が失われるまで続いた。
誰かに激しく呼ばれる声で、フライヤは目を開けた。と、同時に下腹部が鋭い痛みを訴えた。
「……っ」
「大丈夫ですか!? お怪我は!?」
彼女の背中を抱え上げようとしていた兵が、肩を揺さぶるように叫んだ。
一瞬気を失った隙に、モンスターに攻撃を喰らい、身体ごと地面へ叩きつけられたらしかった。身体中が鈍痛を訴えていたが、下腹部だけ鋭く痛みを発していた。
「大事無い、心配いたすな」
搾り出すような声だった。
「すぐに医者を」
「良い、大丈夫じゃ」
「駄目ですよ、貴女に何かあったら……」
未だモンスターと戦っていたフラットレイが一瞬振り向いた。
「医者のところへ! 早く!」
フライヤは彼の目を見た。胸の中から、じわりと不安が頭を擡げる。
どうしようもない絶望感が胸を覆い、フライヤは目を閉じた。
「フライヤさん、お気を確かに!」
「手の空いている者はないか!?」
意識だけははっきりしていたが、フライヤの胸は激しく動揺していた。
実際、突き破らんばかりに心臓の鼓動が鳴り響いていた。
***
初め、医者は頭を打っていないか、足を折っていないかなどの確認をしていたが、フライヤが小さく呻くと、はっとしたように服を剥いだ。
「ああ……まさか! 何ということだ」
どうしようもない絶望感は、今やフライヤの心の全てを占拠し尽くしていた。
「……流れ……たのか?」
弱々しい問いに、医者は痛ましそうな表情で肯いた。
「どうしてそのようなご無理を……」
しかし、フライヤは何も答える術を持たなかった。
無意識に。
その子がいなくなればいいと、思っていはなかっただろうか?
それで、全てが許されるような気になってはいなかったか?
全て許され、何も気兼ねなく想い人の元に飛び込んでゆけるのだと―――
国を守る、民を助けると言うのは、ただの免罪符だったのではないか?
フライヤの唇は震えた。激しく、自らを憎悪した。
「見せてくれぬか」
「しかし!」
医者は、戸惑ったように手の中を見つめた。
「まだ、人の形も取ってはおられないので……」
「一目でも、見せて欲しいのじゃ」
もう一度躊躇ってから、医者は手の中のものをフライヤに示した。
小さな、血の塊のようだった。
「不憫なことをした……」
フライヤは指先でそっと触れた。
「―――許せ」
その指は、震えていた。
フライヤは堪えきれずに瞼を落とした。生え揃った長い睫毛も細かく震えていた。
「この子を、どうするのじゃ」
「それは……」
「もし可能であれば、私にくれぬか」
「フライヤさん、それはいけませんよ……!」
「違う……違うのじゃ。墓に埋葬してやりたいのじゃ」
医師は、ああ、と息を吐いた。
「ええ、ええもちろん、それなら……」
白い布で完全に覆ってしまうと、医師はフライヤにその子を手渡した。
「どうか、他言しないで欲しい」
俯いたまま、フライヤは医者に請うた。
「何もかもを、誰にも……」
貴女の望む通りにしましょう、と医師は呟いた。
街の郊外へ、フライヤは一人その子を埋めた。
雨は降り続いていた。
小さな墓標は雨に濡れ、陰鬱な灰色の世界に溶けていた。
フライヤの胸は激しく震えていた。
昔からそうだった。幸福なことの後には、必ず激しい絶望を突きつけられてきた。今も、それは変わっていなかったのだ。
フライヤは立ち上がった。この痛みを、哀しみを、永遠に心に抱えて生きてゆこう。そうすることで、この子を弔ってやろう。
生まれ来ることもなく消えていった、この命を。
「フライヤ!」
名を呼ばれたらしかった。フライヤは緩慢な動きで、そちらを振り向いた。
「ああ、フライヤ。何ということか」
フラットレイだった。
モンスターとの戦いが終わり、兵たちを労ってから、フラットレイは医者の元へ駆けつけた。その子が彼の子であったと勘違いした医者は、全てをフラットレイに打ち明けたのだ。
彼女が街の外れへ向かったと聞くと、フラットレイは踵を返して後を追った。そして、雨の中に佇む彼女を見つけた。
フラットレイの腕が伸びて、フライヤの身体を力強く包み込んだ。
「可哀想に……辛かったろう」
フラットレイの暖かい手がフライヤの頭を何度も撫でた。
―――どこか、違和感があった。
「もう、大丈夫です」
「フライヤ」
両肩に手を置き、フラットレイはフライヤを離すとその顔を覗き込んだ。
「結婚しよう」
まるで、霧の向こうの幻影のような言葉だった。
「今すぐというわけではない。おぬしの心と身体の傷が癒え、そうしても良いと思えるようになるまで、いくらでも待つ。だが、私はもうおぬしをこのような目に合わせたくはないのだ」
フライヤはまるで聞いていないかのような、ぼんやりした表情をしていた。
「良いな、フライヤ?」
念を押すと、フライヤは微かに肯いた。
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