<5>
「ねえ、アレクサンドリアへ行くってどういう風の吹き回しよ」
後を追いかけてきた女賞金稼ぎが、口を尖らせてそう言った。
「お前は行かないのか?」
そう聞けば、彼女も不承不承に同行するらしかった。
「竜騎士さんに会いに行くわけ?」
ラニは相変わらず口を尖らせて尋ねた。もちろん、サラマンダーは黙して答えなかった。
「好きなんでしょ」
サラマンダーは黙ったままだ。
「私、知ってるのよ。あの日何があったか」
「あの日?」
訝しがるサラマンダーに、ラニは悪魔っぽい笑みを見せた。
「竜騎士さんと一線越えちゃった日」
その途端、急に足を止め、サラマンダーは目を見開いてラニを見た。
「感謝してよね。あの子たちが部屋に戻らないように、気を遣ってあげたんだから」
「何を……」
「しらばっくれても無駄よ。決定的場面の目撃者なんだから」
サラマンダーはまだ立ち止まったまま、呆然としていた。
「どうして取り返しに行かないわけ? 昔の恋人と寄りを戻したとかいう噂じゃない、あの人」
ラニが再び歩き出すと、サラマンダーもとりあえず足を動かした。
「私が手助けしてあげるわよ。あの人があなたの元へ行かずにはいられないように」
「……出来るわけがねぇ」
「あら」
ラニは心外だと言わんばかりの表情で彼を見上げた。
「私を、誰だと思ってるの?」
『愛の狩人』と呼ばれたその人は、小さく目配せした。
何をする気だ、と、サラマンダーは口の中だけで呟いた。
ジタンが帰ってきた。
マントを剥ぎ、身元を明かした彼の元に、ガーネットがロイヤルシートから駆け付けた。
場内は拍手喝采になり、誰も彼もが二人の再会を喜んだ。
塞ぎ込みがちだったフライヤも、久し振りに笑い声を立てた。それを聞きつけたフラットレイが、振り向いて微笑んだ。
―――これがきっかけで、良い方向へ向かうかもしれない、と。
ラニが、サラマンダーの脇腹を誰にもわからぬように肘で小突いた。
そのまま祝宴になり、雪崩れ込むように人々は城の中へ向かった。
一年ぶりのジタンだけでなく、他の仲間たちにとっても久方ぶりの集いだった。
その場の誰もが幸福そうで、フライヤはここ一年で見たこともないほど朗らかに笑っていた。
その笑顔を見て安堵したのは、フラットレイだけではなかったはずだ。
夜が更けた頃、そろそろ部屋へ戻ろうかと立ち上がったサラマンダーに、ラニが意味深な目配せをした。
余計なことはするな、と、サラマンダーは目で忠告した。ラニは肩を竦めただけだった。
「フラットレイ様?」
フライヤが顔を上げ、その人を探した。彼女が仲間たちと話し耽っている内に、席を立ったようだった。
「さっきテラスへ出て行かれたようですが」
近くにいたベアトリクスが、気付いてそう教えてくれた。
「ああ、そうじゃったか。有難う」
フライヤは宴席を抜け出し、窓辺へ向かった。カーテンを引き、ガラス戸を押し開けようと指を伸ばす。
一瞬、石のようにその動きが止まった。
フラットレイは女と一緒だった。彼女はフラットレイの首や足に自分の腕や足を絡みつかせ、今にも顔と顔がくっつきそうなほど近付いていた。
思わず、持っていたグラスを取り落とす。かしゃんと、壊れやすいそれが音を立てて砕け散った。
「フライヤ!」
フラットレイが気付いて名を呼んだ。
しかし、それには答えず、フライヤは踵を返してその場から立ち去った。
「フライヤ!」
後を追う竜騎士を、口元に笑みを浮かべたラニは引き止めようともしなかった。
「私はただ、始まりのスイッチを押しただけよ……選ぶのは、貴女」
猛烈な勢いで走ってくるフライヤに、サラマンダーはぎょっとして立ち止まった。
「どうした」
その人を認めると、フライヤは思わずその腕の中に駆け込んでいた。
「なんだ」
「サラマンダー……!」
フライヤの身体は細かく震えていたが、具合の悪い人間があんな風に走り回るとは思えなかった。
「待たぬか、フライヤ!」
フラットレイが追い付き、サラマンダーの腕の中にいるフライヤに呼び掛けた。
「見たままを事実と受入れてしまったのか? おぬしは、それ程考えなしではないはずだ」
フライヤは答えなかった。
「フライヤ、私が信じられぬというのか?」
「信じられませぬ」
「フライヤ!」
「信じられませぬ!」
フライヤは搾り出すように叫んだ。
その切迫した叫び声に、さしものフラットレイも口を噤んだ。
「貴方様は、必ず帰ると仰ったのに帰ってこられなかった……私のことなぞ忘れてしまわれた」
「それは……!」
「守ると仰ったのに、守ってくださらなかった! 本当は、喜んでおられたのではありませぬか!? あの子が死んだことを!」
フラットレイが息を呑む音が、サラマンダーには聞こえるようだった。
「あの子がいなくなって良かったとお思いになったのではありませぬか!?」
サラマンダーはフライヤの背中に回した片腕で、フライヤの不安定な身体を支えてやった。それほど、彼女は動揺しているらしかった。
「私は……もう貴方様を信じられませぬ! 決して、二度と信じられませぬ!」
うう、と呻き声を漏らすと、フライヤは俯いて嗚咽を漏らした。
その肩を支えながら、サラマンダーはフラットレイを見た。彼の視線は呆然として、そんな激情が彼女のどこに秘められていたのかを探すかのように、フライヤの上を行ったり来たりしていた。
「サラマンダー……気分が悪い」
見ると、貧血でも起こしたのか顔色が真っ青になっている。
サラマンダーはもう一度フラットレイを見たが、彼には何も見えてはいなさそうだった。
小さく息を吐くと、フライヤを抱え直して、自分の部屋へ連れて行った。
「ほら、横になれ」
フライヤがのろのろとベッドへ上がると、サラマンダーは上着を脱がせ、掛け布を引っ張った。
「すまぬ……迷惑を掛けた」
サラマンダーは鼻で哂った。
「今更だろうが」
大きな手が頭に乗せられ、そのまま枕へ誘導される。フライヤは横になると、じっとサラマンダーを見つめていた。
「なんだ」
「……おぬしといると、安心するのう」
サラマンダーは黙ったまま、片眉を上げた。
「フラットレイ様と共におると、いつも心が張り詰めておるのじゃ。一時たりとも休まることはない。昔はそういうものじゃと思うておったが、今は……」
フライヤは長い指で、自分の唇をそっと撫でた。
「甘えることも、泣き言を言うことも、あの方の前では出来ぬのじゃ」
サラマンダーは何も言わなかった。心地よい沈黙が流れ、フライヤは瞼を下ろした。
「もうブルメシアへは帰れぬの」
「お前が帰って、あいつが出てきゃいいじゃねぇか」
「そういうわけには行かぬ……フラットレイ様は、ブルメシアにとって必要なお方じゃ」
「お前だって必要だろうさ」
そうだろうか、と、フライヤは思った。
一体、自分はどれだけのことをして来ただろうか?
「フラットレイ様がおられる所へはもう戻れぬ」
フライヤは寝返りを打った。
「なら」
ベッドのスプリングがぎしりと音を立て、マットレスが背中の方へ傾いだ気がした。フライヤが振り向くと、サラマンダーが腕を突いて覗き込んでいた。
「俺と一緒に来ればいい」
「え……?」
フライヤは目を瞠った。
「前にも言っただろう。お前が欲しいと」
「ほ、本気で言うておるのか?」
「冗談を言う顔に見えるのか」
サラマンダーはいつもの仏頂面のままで、冗談どころか、世間話さえしそうにない顔をしていた。
「他に行きたいところがあるならいい」
サラマンダーは突いていた腕を外すと、顔を背けるようにベッドを降りる。窓の桟に軽く腰掛けると、彼は詰まらなそうな顔で外を見た。何か見えるのだろうか、月でも出ているのだろうか?
物音は一つもしなかった。フライヤが起き上がると、掛け布の衣擦れが殊更大きく響いた。
「他に行きたいところなど、どこにもない」
サラマンダーは振り向いた。
二人の視線は完全に絡み合い、もう二度と外れることはないかのようだった。
朝靄の中、サラマンダーの部屋を出たフライヤは、フラットレイと出くわした。彼女を待っていたらしいその人は、凭れていた壁から身体を起こし、幾分眩しそうに目を細めて彼女を見た。
「すまぬ」
フラットレイはそう呟いた。
「おぬしがそのような思いを抱いていたことに、何も気付いてやれなかった……すまぬ」
フライヤは黙って頭を振るだけだった。
「確かに私は、おぬしの元に戻らなかった。守ることもできなかった。おぬしが辛い思いをしていても、寄り添うことさえできなかった」
「フラットレイ様!」
フライヤが顔を上げた。
「酷いことを申し上げました……どうかお許しを」
「許しを請わねばならぬのは、おぬしではない。私だ」
フラットレイが一歩進み出た。右手が僅かに持ち上がり、彼女に触れたがったが、また元の位置に戻った。
「死ねばよいなどと思ったことは一度もないのだ」
フラットレイは立ち竦んだまま、言葉を続けた。
「……だが、もしかしたら心のどこかで、私は安堵したのかもしれない。果たしてその子を受入れられるのか、自信はなかった。他の男の子供である、その子を」
フライヤは両手を握り締めた。
「記憶を失っても、身勝手なのは変わらなかったのだ……見限られて当然のことだ」
「そんな……!」
フライヤはフラットレイを見た。寂しげな瞳は微かに柔らかく笑みを浮かべ、全ての終わりを告げていた。
彼が故国を旅立ったあの日、こうなることは決まっていたのか。
「さらばだ、フライヤ」
フラットレイは最後に、一瞬だけフライヤを抱き寄せ、髪に口付けを贈った。
そして、何事もなかったように踵を返し、去って行った。
奇しくも、フラットレイはあの日と同じ言葉を残した。
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