Good-Morning, Good-Night



「何だ、これは」
 朝起きてから、彼が最初に言った言葉はそれだった。
「何って、朝ご飯に決まってるじゃない」
 何をとぼけたことをと、ラニは返した。
 居候するのだから、せめて炊事洗濯くらい請け負っても罰は当たらないだろうと、早速朝から台所を借りた。ただそれだけのことだ。しかし、まさか勝手に使ったのを怒っているのだろうか、サラマンダーはむっつりと黙ったまま不機嫌そうにしている。
「食べれば?」
 ダイニングの向かいの席を勧めると、しばらくしてから不承不承の態で座った。


 このダイニングセットも、ラニが買わせたようなものだ。サラマンダーの家を訪ねる度に、座って物を食べる場所がないのが不便で仕方なかった。自炊できるように設備を入れさせたのもラニだったし、そこでたまに夕食を作ることもあった。
 だから、今更勝手に台所を使ったからといって、怒るほどのことでもないだろうと彼女は思った。大体、オムレツの卵もベーコンも、サラダに入れたトマトもレタスも全部、ラニが買い置きしておいた物だったのだし。
 そんなことを考えるうちに、ラニは自分が随分ここに入り浸っていたのだということに、今更ながら感慨めいたものを覚えた。


 サラマンダーは黙って座ったまま、目の前の皿たちを凝視している。
「不味くはないわよ。大して美味しくもないけど」
 ラニはそう言って、食べ終わった自分の皿を流しに片付け始めた。
「低血圧で食べられないとか言うんじゃないでしょうね」
「……いや」
 ようやくそう答えると、サラマンダーは諦めたように溜め息を吐き、フォークを手に取った。
「何か文句でもあるの?」
 ラニは、少しむっとして思わずそう問い質した。
 確かに今までも随分入り浸ってはいたが、なにしろ今日は栄えある同居一日目である。今からこれでは、先が思いやられてしまうではないか。
「……別に」
 こういう曖昧なところは、彼の中でラニが一番気に入らない部分だった。
「何よ、はっきり言ったら」
 サラマンダーは顔も上げず、モグモグとオムレツを食べている。
「言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃない。余計なことしたなら謝るわよ。もしかして宗教上の理由とかで朝食は食べない主義なの? あ、野菜が嫌いとかじゃないでしょうね。野菜は食べた方がいいわよ、体にいいんだから」
 サラマンダーはちらりと目を上げた。その顔には、明らかに「うるさい」と書かれていた。
 そしてオムレツを一口呑み込んでしまうと、観念したのか、やっと口を開いてこう言った。
「こういうのに、慣れてないだけだ」
 それっきり、また黙ってしまう。黙ったまま、今度はサラダに手を伸ばした。
 そして、ラニはぴたりと詰問するのをやめた。


 ―――なんだ、照れてたのか。


 思わず口元がニヤニヤと弛んできて、咀嚼の合間にそれを見たサラマンダーが、少しぎょっとしたような表情になった。



***



 夜を一緒に過ごすようになってから、もう随分長かった。
 ラニは夜があまり好きではなかったし、暗闇の中で寂しさを抱えるくらいなら、誰でも一緒に過ごしてくれる人が欲しかった。
 それはたぶんサラマンダーも一緒で、一人不貞寝するくらいなら、傍らで眠る人間が欲しかったのだと思う。
 けれど、二人が朝を一緒に過ごしたことはあまりない。
 用が済んだら、ラニは宿の部屋へ戻ることが多かった。


 二人の関係が決定的に変化したのは昨夜で、サラマンダーは「このままここに住めばいい」と言った。言い草はいつもの「勝手にしろ」といった雰囲気だったが、目は「頼むからそうしてくれ」と語っていた。心配しているらしい。柄にもない。むしろ気味が悪いと言ってもいいくらいだ。
 それでも、昨夜までの軽い関係にはもう戻れないことも、ラニにはわかっていた。
 何しろ、ついに「好き」と言ってしまったのだ。気持ちは本当だったが、口に出したのは殆ど勢いだった。朝になってから恥ずかしくて酷く後悔したが、言われた方は妙に満足気だった。ほとんど悪趣味と言ってもいいとラニは思った。



 サラマンダーは、賞金首の汚名が晴れてから後、トレノの大屋敷の一つで用心棒の仕事をしていた。八英雄の一人ということもあって、あっちからこっちから引っ張りだこだったが、どんなに高額の給料を提示されても、サラマンダーは最初に決めた雇い主の元から離れることはなかった。ラニが「勿体ない」と言うと、サラマンダーはわからないと言って肩を竦めた。
「別に不満もねぇのに、わざわざ変わる必要があるのか」
 ちょっとずれていると思う。断じて。
 それでも、報酬は暮らしに困るような額ではなかった。サラマンダーは文字通り黙々と働いていた。



 サラマンダーが仕事に出てしまうと、ラニには何もすることがなくなった。部屋は意外と片付いていたし、洗濯物も溜まっていなかった。
 昨夜負った傷はまだ残っていたから、外へ遊びに行く気にもなれなかった。ラニはぼんやりとソファに座ったまま、これからどうなるのだろうと想像してみた。
 例えばこのまま、彼の奥さんになるとして。子供が生まれたとして。
 ―――何だか妙にピンと来ない想像だったが、ラニは構わず続けた。
 朝、目を覚ましたら、今日みたいに彼と子供たちのために朝ご飯を用意する。ダンナは結構たまご好きだから、毎朝目玉焼きでもいいかもしれない。子供たちはパンケーキが食べたいとせがむだろう。仕事に出かける彼を見送って、子供たちを学校へやって。
 洗濯をして、掃除をして、おやつを作って、子供たちが帰ってきて、夕飯を作って、ダンナが帰ってきて、いわゆる「家族団らん」とかいうものをして、夜が来て―――
 頭を振って、ラニはどうにも馬鹿馬鹿しい想像から現実世界へ戻った。何だか、まるでおとぎ話のようだった。子供の頃から大金持ちになるのが夢で、可愛いお嫁さんになりたいなんて考えたこともなかったのだ。
「―――馬鹿みたい」
 ラニは一人呟いた。
 誰がそんな生活を約束してくれたと言うのか? サラマンダーは、ただ「ここで暮らせばいい」と言っただけなのだ。
 本当に、呆けた人間になったような気持ちだった。ラニは勢いよく立ち上がり、気を紛らわせるために大晦日よろしく大掃除を始めた。



「仕事……?」
 帰宅した途端、サラマンダーはラニにとっ捕まった。
「そう、仕事」
 ラニは熱心に彼を見上げていた。
「用心棒くらい、私にもできると思うのよ」
 そう言うと、サラマンダーは明らかに不承な顔をした。
「怪我が良くなったら、斧の訓練をまた始めるし、魔法も勉強し直すし」
「待て」
「クイーン・ステラのお屋敷で、女性のガードを募集してるって話しだし」
「ラニ」
 呼ばれると同時に、振り回していた右手を掴まれた。
「働く必要はねぇ」
「ど、どうしてよ」
 名前を呼ばれるのはどうにも弱い。こんな風に呼ぶなんて、絶対反則だ。
 ラニはキッとばかりにサラマンダーを見上げた。
「欲しいものでもあるのか」
 サラマンダーがそう訊ねた瞬間、ラニはムカッときて、腕を振り払い、台所の奥へ逃げた。
「そんなんじゃないわよ!」
 と、大声で叫びながら。







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