<2>


 郵便受けを覗くと、手紙が一通入っていた。ブルメシアの特徴的な切手が貼ってあり、封筒は雨に濡れたようにごわついていた。それを見て、ラニはものすごく不機嫌な気分に陥った。



 サラマンダーと同居して、一日目から喧嘩になった……かなり一方的に喚いただけだったけれど。
 次の朝、サラマンダーはもう一度「働く必要はない」と念を押した。「好きなことをすればいい」と言われて、ラニは押し黙った。
 好きなこと。自分が好きなことで、したいことなんて何も思い浮かばなかった。
 それから数日が過ぎて、身体中にできていた痣も擦り傷も大分良くなっていたが、ラニは日がな一日サラマンダーの家でブラブラしていた。することもないので部屋中を掃除し、洗濯をして、夕飯を作って彼の帰りを待った。
 そんな日常が、じわりじわりと不安をもたらした。
 一体、何をしてるんだろう、私……? こんなままでいたら、きっと私は平穏に慣れきってしまう。そうして、もしダンナが私に飽きてポイっと投げ出したら、私はきっと空っぽで何もない虚無な人間になっちゃうのよ。
 そんな危機感がじわじわとラニの胸に進入していた。そこへやって来たのが、竜騎士からの手紙である。
 何が書いてあるのか、ものすごく気になった。気になって気になって、サラマンダーにそれを渡すのが酷く気重だった。彼に読んで欲しくなかった。



 仕事から帰ったサラマンダーにフライヤの手紙を渡すと、彼は訝しげな顔をして、しかししっかり受け取った。
 封を開け、数行読むと、あっという間にその眉間に皺が寄った。そのまま、わざわざ玄関の外まで行って続きを読んだ。
 ラニは面白くなくて、彼が手紙を読み終わって帰ってきても、ずっとふくれっ面でいた。しかし、サラマンダーは何か考えているらしく、ちっとも気付いてくれなかった。



 彼の元に手紙なりなんなりが届くことは珍しかった。時々アレクサンドリアやリンドブルムや、面白くないことにブルメシアからも手紙は来たが、それに返事を書いている様子もなかった。従って、手紙はあまり頻繁には届かなかった。
 しかし今回に限って、ブルメシアからの手紙の数日後にはリンドブルムから手紙が届き、その後数日たってアレクサンドリアからも届いた。
 ラニは、ポストからその手紙を取り出して、どうしたことかと怪訝に思った。
 一体、何があるというのだろうか?
 長い間、俗世からすっかり遠い場所で、隠居生活でもしていたような気分になる。
 裏を見てみると、差出人であるガーネットの手蹟で、彼女が私的な手紙を書く時に使う「ダガー・A」というサインが入っていた。
 ラニは何となく釈然としないまま、それを玄関の上がり口の戸棚に置いた。



「で、なんて書いてあったの?」
 アレクサンドリアの女王から届いた手紙を、サラマンダーは黙って開封し、黙って読んでいた。
「ねぇってば」
「……ああ」
 そして、封筒に元通りに戻すと、すぐに引き出しに仕舞ってしまった。
「ちょっと」
 ラニはむっと頬を膨らませた。
「なんでもない」
 しかし、サラマンダーはその一言で片付けてしまう。
「じゃぁ、なんで隠すのよ」
「別に隠してねぇ」
「なら見せなさいよ!」
 ラニが右手を出したが、サラマンダーは相変わらず黙ったまま、それを了承しなかった。
「何よ、隠し事? 何なワケ?!」
 ソファから立ち上がり、ラニはヒステリックな声で叫んだ。
「怪しいじゃない、言いなさいよ!」
「落ち着け」
「落ち着いてられるわけないでしょ!!」
 ヤケクソで大声を上げた。
 サラマンダーは困った顔で見下ろしている。
「あんたが一緒に暮らそうって言ったんじゃない、私だって家庭に縛り付けられて籠の鳥なんて真っ平なのよ!」
 急に矛先がずれた気がして、サラマンダーは戸惑って目を瞬かせた。
「怪我が治ったら働くんだから! あんたの世話にはならないわよ!!」
 思いっきり声を張り上げると、やっと気が済んで、息を弾ませながらラニは静かになった。
 突然静かになった部屋で、ラニのゼエゼエ言う呼吸の音だけが響いている。
「……わかった」
 サラマンダーは呆気に取られたような顔をして、そう言った。
「何も、お前に身の回りの世話をさせようなんて思っちゃいねぇ」
 ラニは勢いでまだ睨み付けたままだったが、口元がぽかんと開いた。
「それから、俺宛ての手紙が気になるなら、読んでいいぞ」
「……え?」
 サラマンダーはさっき封筒を仕舞った引き出しを指差した。
「大体、あの中に入ってる」
「……いいの?」
 一瞬極まりの悪そうな顔をしてから、サラマンダーは頷いた。



 気になっていた。ブルメシアから何と言ってくるのだろうと。サラマンダーはずっとあの竜騎士が好きで、近くにいたラニのことなど目に入っていなかったくらいだ。
 そのフライヤが何を言ってくるのだろう。こうして一緒に暮らすようになる前から、テーブルの上に無造作に置かれた、雨に滲んだようなインクの宛名書きを見る度に、ラニの胸は言い知れずモヤモヤとした。
 サラマンダーが風呂場へ行ってしまってから、ラニは引き出しから、数通下に挟まっていた封筒を取り出した。妙に緊張して、指に汗を掻いていた。
 封筒から手紙を出そうとして、一瞬、本当に読んでもいいのかと惑った。サラマンダーはよくても、フライヤにしてみれば、誰かに読まれるつもりで書いたはずもないわけだし……。
 そう思ったら、ますます何が書いてあるのか気になって気になって、動悸まで激しくなってきた。ラニは意を決して手紙を開いた。
 サラマンダーへ、と、宛名が書かれていた。元気にしておるか? こちらはみな息災じゃ。と書いてあった。おぬし、最近懇意のおなごができたと聞いたぞ、と、まるでからかうような筆跡で書いてあって。おぬしに家庭ができれば、我々も安心じゃ。と、書いてあった。
「か、家庭……?」
 ラニは吃驚して、手紙を取り落としかけた。慌てて次の手紙を探す。リンドブルムからのもので、フライヤより数日遅い消印だった。
 サラマンダー、聞いたわよ! おめでとう!! と、元気いっぱいな少女の文字だった。どうやってプロポーズしたのよ、似合わないわよ、と、リンドブルムの公女は悪戯っぽい字で書いていた。そして、封筒の端の方には男の子の筆跡で落書きがしてあった。シッポが書いてあるところを見ると、あの少年らしい。「やるじゃんサラマンダー♪」と、噴出しの中にそう書いてあった。
 ラニは、今日来たアレクサンドリアからの手紙も開けてみた。大急ぎで書いたらしいガーネットの字が並んでいた。
「ビックリしたわ、あなたが結婚するだなんて! 今日ジタンから聞いたのよ」



 サラマンダーが風呂から上がってきても、ラニは無反応なまま、膝の上に手紙を落としてぼんやりとしていた。
 どうやら、あまり見て欲しくなかった手紙を全部見てしまったらしいと、サラマンダーは胸の内で苦笑した。
 人の気配に、ラニが顔を上げる。まるでふわりとしていて、いつもの彼女らしくなかった。
「……ダンナ」
 絨毯の上にペタリと座り込んだまま、ラニはか細い声で呼んだ。
「あの、これ……結婚って、どういうこと?」
 ラニの記憶が正しければ、サラマンダーからプロポーズされた事実はない。と、思う。
「ここで暮らせって、それって、結婚しようってことだったの?」
「……いや」
 サラマンダーは気まずそうに一言だけ答えた。
 ラニは突然、夢から覚めた。そうだ、当たり前だ、そんなはずはない。はっきり言って、あんな竜騎士風情より私の方がダンナとの付き合いは長いし、この人のことはよくわかってるんだから。ダンナが結婚しようなんて、そんなこと言うはずないのよ!
「やっぱりそうよね」
 ラニは笑った。
「みんな誤解してるんでしょ? ほら、一緒に暮らす=結婚みたいな、単純な考えの持ち主そうじゃない、あの人たち」
「そうじゃない」
 不意に、強い語気でサラマンダーがそれを否定した。
「俺が思いつかなかっただけだ」
「え?」
 何を、とラニの唇が動いた。
「それが『結婚する』ということなんだと、思いつかなかった」
「……は?」
「俺は、そういうつもりで言ったわけじゃなかった。でも、そういうつもりだったんだ」
「……な、何言ってるかわかんないわよ」
「お前が、ここで一生暮らせばいいと思った」
 サラマンダーの湖面のような瞳が、いつになく真摯に光っていた。ラニは戸惑って何度も瞬きした。
「それが、『結婚する』ってことだとわかったのは、こいつらから手紙をもらってからだ」
 と、ラニの周りに散らばっていた手紙を顎で示した。
「お前はわかっているのかと思っていた」
「わ、わかるわけないじゃない、だって……」
 夢ばっかり先行して一人で悶々としていたのだから、そんなことに気付く暇もなかった。とは、言えないけれど。
「……なら、そういうことだ」
 サラマンダーは照れ臭そうに顔を背けた。
「ちょ……!」
 ラニは立ち上がった。
「それで終わり? そんなんでプロポーズ済ますつもり?! 言っとくけど、一生に一度のことなのよ? 跪いてやる人だっているって話じゃない、それがどうよ、『そういうことだ』で終わり? 信じられない!」
 わあわあと喚きだしたラニの両肩を掴まえて、サラマンダーは「わかったから静かにしろ」と言う。
「冗談じゃないわ、静かになんてしてられな……っ!!」
 掴まれた肩をぐいっと引き寄せられ、ラニは思わず小さな悲鳴を上げた。
 サラマンダーはその耳元に顔を寄せると、ほとほと困り果てたような声で、こう言ったのだった。
「わかったから、静かにしてくれ……」



***



「で、結婚したんじゃないわけ?」
 と、ジタンが悪戯っぽい目で見たので、サラマンダーは溜め息を吐いた。
「じゃぁ、フライヤが勝手に勘違いしたってことか」
「だって、フライヤが『サラマンダーもついに身を固める気になったらしいのじゃ』って言ったのよ、だからエーコはてっきり結婚するんだとばかり……」
「それでオレがそれをダガーに知らせて、」
「そしたらスタイナーが大騒ぎして、」
「ベアトリクスがめちゃくちゃ怒っちゃってさぁ、拗れまくって『別居します!』とか言われて、おっさんすげー落ち込むし」
 ジタンがゲラゲラと笑った。
 話は既に全く別の方向へ進んでいて、サラマンダーは少しだけほっとした。



 結婚したわけではない、かもしれない。
 あの理解不能な儀式をしたわけでも、何でそんなことをするのか未だにわからない指輪の交換だとか、そういうことをしたわけでもなかったのだから。
 結婚して欲しいと、言ったわけでもなかったし、そのことでラニには随分責められた。が。
 ―――ふざけるな。そんな軟弱な言葉を吐けるか。
 そして、うやむやにしたまま、サラマンダーはリンドブルムへ逃げてきた。

「でも、フライヤってば『しかし、相手は誰かのう』なんて言ってるんだから、事情はなんにもわかってなかったんじゃない?」
 エーコはそう言うと、考え事をしているサラマンダーの顔を覗き込んだ。
 ジタンも、同じように覗き込む。
「で、相手は誰なワケ?」
「エーコも興味ある〜v」
「……」
 いつの間にか、話が元に戻っていた。サラマンダーは我に返って二人を見た。
 二人とも、飛び切り嫌味なニヤニヤ笑いをしていた。
「トレノの美女だろ? 酒場のウェイトレスか?」
「あ、踊り子さんとかじゃない?」
「トレノなら貴族の娘とか。もしかして逆玉!?」
「逆玉はあんたじゃない、ジタン」
「あ、そっか」
 ジタンが再びゲラゲラ笑い、話は全く別の方向へ流れていった。
 そして、サラマンダーは未だ、その行方知れずな会話について行けないのだった。





-Fin-







最近ドタバタ系が多いので、一拍置こうかなーって思っているうちに半年たってしまいました…。
ってことで、倉庫から蔵出しのサラニをお送りしてしまいます。暁月の翌日からのお話です。
サラマンダーってたぶんハッキリしたことは言わないと思うので、
この二人は子供ができたら正式に結婚するんだと思います。

2009.5.24




BACKBACK         NovelsNovels         TOPTOP