「ボクが一番大切にしているものなんだ」

 そう言って、たった一通の封筒を残したまま空へ消えてしまった人がいた。

 だから、今は代わりにあたしが一番大切にしてるんだよ。
 あんたが生きていたってこと、証明するために。



優しい雨



 とにかく、悪戯な子だった。
 齢三つのシド十世はとにかく悪戯で、しかも人見知りが激しいので、両親か、年の離れた姉が側についていなければ、誰かの言うことなど決して聞きはしないのだった。
「ごめんねバンス。わざわざお城まで来てもらって」
 と、エーコは済まなそうに言った。前々から、彼の誕生日は二人でお祝いしようということに決まっていたのに、ちょうどその日を跨いで数日間、彼女の両親はアレクサンドリアで会合があり、出掛けてしまったのだった。
 後からジタンが「悪ぃ、忘れてた!」と言って来たが、まぁバンスとしても、ジタンが自分の誕生日をしっかり覚えているはずがないのはわかっていたので、文句は言わなかった。
 ―――女の子の誕生日ならいざ知らず。
 それで、エーコは弟を抱っこしたまま、幾分疲れた表情でバンスを出迎えたのだった。
「いいよ、別に。そんなに遠いわけでもないし」
 と、バンスは冗談めかして肩を竦めた。
「シド、お姉ちゃまはお友達とお話があるから、一人で遊べるわよね?」
「いや」
 小さな弟は頑固に首を振った。
「ねーたまとご本読む!」
「だーかーら! お姉ちゃまは忙しいの!」
 床に降ろそうとしたら、器用に足を浮かせてそれを拒否した。
 思わず、バンスは笑い出した。どうして子供ってこんなに可笑しいことばかりするんだろう。
「いいじゃん、三人で遊べば」
 バンスはまだ笑いながらそう提案した。
「え……でも」
 完全に『コブ付き』な気分に陥ったエーコが、表情を曇らせる。
「だって、今日は誕生日なのに……」
「いいよ、どうせまた来年も来るし」
「それって一年も後じゃない!」
 エーコは悲痛な叫びを洩らした。
 しかし、『三人で遊ぼう』という提案がいたくお気に召したらしいシドは、バンスの袖を掴んで、離さなかった。
 彼は新しいお兄さんを舌っ足らずに『バーシュ』と呼んで、非常にご機嫌だった。
「珍しいわねぇ、シドが余所の人に懐くなんて」
 と、バンスに抱っこされて喜んでいる弟に、エーコは首を傾げた。
「ほら、おれが子供に慣れてるからじゃない?」
 そうだった。さすが、あの双子の相手をしているだけのことはある。エーコは妙に納得した。
「少し面倒見ててもらってもいい? あたし、ちょっと用事があって困ってたの」
「ああ、いいよ」
 姉が部屋を出て行ってしまっても、シドはキャッキャと笑い続けた。それは、遠巻きに様子を伺っていた彼の乳母たちをひどく驚かせた。
 遊び疲れたシドが眠ってしまうと、バンスはちゃんとその子をベビーベッドに寝かしつけ、エーコの部屋へ向かった。



 エーコは部屋にいなかった。
 エーコの部屋に来るのは、あまり頻繁ではない。バンスが城で窮屈な思いをしたら嫌だから、と、エーコの方が学校帰りにタンタラスへ寄ることが多かった。
 前に来た時は、まだベッドや机の上に縫い包みだとか人形だとか、そういった類のものがぞろぞろ並んでいたのに。いつの間にか綺麗に片付けられ、それだけで部屋は随分大人っぽく変わっていた。
 バンスは小さく溜め息をついた。―――女の子って、よくわかんない。
 何気なく机に近寄った。書きかけのノートが出しっ放しになっていて、見るつもりもなかったのに、バンスはちらりと目を遣った。
 ビビ、と、最初の行はその単語で始まっていた。

 ビビが死んでしまって、もう九年。
 ビビのことを、今も思い出してるの―――

 バンスは、何となくギクリとなって、思わず指でページを繰っていた。
 そのノートには、日常の細々したことや、両親のこと、弟のこと、学校のことなどが書いてあった。そして、ビビ、という単語が始終上がっていた。

 ビビ、あんたの手紙を今も大切にしているの。
 ビビ、あんたの夢を見たわ。

 まるで、恋焦がれる人へそっと語りかけるように。ノートのページは、彼への言葉で埋め尽くされていた。



「何してるの?」
 不意にそう声を掛けられて、バンスははっとしてノートから手を離した。
「あ……それ」
 エーコは駆け寄ると、さっと表紙を閉じた。
「見たの?」
「……ごめん。そんなつもりなかったんだけど……」
 バンスは困惑して、言い訳のような言葉を呟いた。本当にそんなつもりはなかった。
 でも、確かめずにはいられなかったのだ。
 ―――あの黒魔道士のことはたくさん書いても、おれのことは一言も書いてなかった……。
 てっきり怒り出すかと思ったのに、エーコは「そう」と言って、するっと机から離れた。
「お茶入れてきたんだけど、飲むでしょう?」
 と、ティータイム用の小さなテーブルセットに腰を下ろす。
「エーコ」
 思わず、バンスはエーコに詰め寄った。
「何か、言わないの?」
「だってもう見ちゃったなら仕方ないじゃない……そんなつもりなかったなら、ノゾキ趣味ってわけでもないんでしょ?」
 と、エーコはきょとんとした顔で、バンスを見上げた。
「どうして……」
 バンスの胸に、訳のわからない、暗い雲のようなもやもやが湧き出してきた。それで、思わず言ってしまったのだ。
 ―――言ってはいけないと、わかっていたはずなのに。
「どうして、エーコはビビさんのことばっかり考えてるの」
 エーコはバンスを見上げたまま、その表情はほとんど変わらなかった。
「おれのことなんかどうでもいいんだ」
「え?」
 今度は、エーコの顔が僅かに曇った。
「何言ってるの? そんなわけないじゃない」
「でもそうなんだろ」
「ちょっと、バンス……」
 エーコは慌てて立ち上がったけれど、バンスは二、三歩下がってしまった。
「エーコは、今でもビビさんのことが好きなんだろ?」
「な……!」
 一瞬翡翠色の目を丸くして、すぐに泣き出しそうな表情になった。
「忘れられないんだろ?」
「……バンス」
「忘れられないし、忘れたくもないし、ずっと想い続けるんだろ? おれなんか、どうでもいいんだろ!?」
「違うわ!」
 エーコは本当に泣き出して、バンスは一瞬だけ我に返った。
「バンスのことをどうでもいいなんて思ってない!」
 でも、と、エーコは嗚咽の合間に息を継いだ。
「ビビのことは、忘れることはできないし、忘れたくないの。それだけはできないの……!」



 やっと頭が冷えてきて、バンスがそれを深く深く後悔したのは、エーコの部屋を飛び出してからしばらくした後だった。







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