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「おはよ、ジェフ」
「はよ」
 洗面所で、双子はごく簡単に朝の挨拶をする。
 ジェフリーは歯を磨き、リアナは顔を洗った。
「サフィーは?」
 歯ブラシを咥えたまま、ジェフリーが訊ねる。
「寝ても覚めてもサフィーだね、あんたは」
 もう起きてるよ、と、リアナは洗面台に顔を伏せ、目を瞑ったまま答えた。
「後でちゃんと仲直りしてよ。あんたたちが喧嘩したの、わたしのせいみたいじゃない」
「リアナ」
 急に、ジェフリーが屈み込んだ気配がして、リアナはタオルを手探りしながら目を開けた。
「これ、どした」
「どれ」
「カレシ?」
 ジェフリーが指差した左の首筋あたりを鏡で見る。消えかけていたから忘れていた、小さな痣。
 一瞬、リアナは苦しげな表情をした。
「……じゃないよな」
 ジェフリーは姉の変化を見逃さなかった。
「誰だ?」
「関係ないでしょ」
「誰だよ」
「いいじゃない、放っておいて」
「リアナ」
「何でもないわよ」
 濡れたままだった顔をタオルで拭う。
「まさか」
 ジェフリーが小さく呟く。
 リアナはタオルに顔を埋めたまま、動揺する目を見られないように用心した。
 けれど弟が、そんなことで姉の心の揺れを感知できないはずもなかった。
「あいつ……!」
 ジェフリーは身を翻してどこかへ走り去った。
 止めに行かなければ。そう思うのに、リアナはしばらく洗面台の前を動けないまま、タオルに顔を埋めて立ち尽くしていた。
「ジェフリー!」
 サファイアの悲鳴が聞こえた。



「ジェフリー、やめて!」
 洗面所へ行こうとしていたサファイアは、信じられないものを目にした。
 ラリとハリーの部屋はドアが開いていて、そこへジェフリーが駆け込み、ラリに殴りかかったのだ。
「ジェフリー!」
 悪いことに、ハリーは部屋にいなかった。ラリはまるで無防備で、胸倉を掴まれたまま、されるがままになっている。
「殴ればいいずら」
 ラリは冷めたように言った。
「それで気が済むなら」
「お前……!」
 振り上げた腕にサファイアがしがみ付いた。
「やめてったら!」
 しかし、思い切り振り払われて、床へ吹き飛ばされた。
「いっ……!」
 尻餅をついてしまったサファイアが見上げたのは、いつもの彼からは考えられないほど、怒りに燃えた瞳。
「サフィーさん、大丈夫っスか?!」
 サファイアの悲鳴を聞きつけて廊下を走ってきたハリーが、ようやく止めに入った。
「どうしたっスか! 落ち着くっス、ジェフリー」
「うるせぇ、離せっ」
 止めに入ったハリーの腕を払おうとしたが、今度はサファイアのように簡単にはいかなかった。
 やっと羽交い絞めにして引き離すと、ジェフリーはまだ暴れていたが、何とか騒ぎは収まった。
「どうしたのよ、ジェフリー!」
 お尻をさすりながらやっとサファイアが立ち上がると、ジェフリーは一瞬彼女を見たが、またラリを睨み付けた。
「こいつが、リアナのことを……!」
「キスしただけっスよ、ジェフリー。そうっスよね、ラリさん? そう言ってたっスよね」
「キスだけであんなトコに跡が残るかよっ」
 ハリーの腕を剥がそうと、ジェフリーはもがいた。
「俺は許さねぇ! 一発殴らなきゃ気が済まねぇよ!」
 ラリはどこかしれっとしてジェフリーを見ていた。
「嘘……」
 サファイアが信じられないという目でラリを見た。
「嘘でしょ、ラリ?」
「嘘じゃないずら」
 騒動でメガネが外れていたため、瞳の挑発的な色がいつもより増して見えた。
「な……!」
 サファイアはあまりのショックに泣き出しながら再び床に座り込み、ハリーは驚いてジェフリーを捕まえていた手を離してしまった。
 ジェフリーが再びラリに掴みかかりそうになった時、ドア口から一つの声がそれを止めた。
「もうやめてよ!」
 リアナだった。
「嫌だよ、こんなの」
 彼女は、絶望的な声でそう言った。
「どうしてこんなことになるの?」
 リアナは両手に顔を埋めた。いつもは気丈な彼女が小さく肩を震わせいる。
 束の間、部屋は静かになった。何か言おうとサファイアが立ち上がりかけた時、
「みんな〜、ご飯やでぇ? 騒いでないで早う食べぇや!」
 と、ルビィが階段の下から呼び掛けた。



***



 朝の食卓はかつてないほど静かだった。
 タンタラスの長い歴史からしても、たぶんこんなに静かだった日はないくらいだった。
 異常を感じたルビィがブランクに目配せしたが、彼は肩を竦めただけで、物も言わずに新聞を読んでいた。
 仕方ないので、ルビィは子供たちを観察してみた。
 サファイアは心なしか蒼い顔をして、さっきからポテトサラダを突っついてばかりいる。リアナも俯いたままで、同じようにサラダを突っついていた。
 逆に、ジェフリーは黙々とトーストをかじっているし、ハリーは困ったように時々顔を上げるものの、また目線を手元に戻して溜め息を吐く、を繰り返していた。
 ラリは、フォークさえ握っていなかった。
「ラリ、食欲ないん?」
 ルビィはさり気なく注意した。
「ちゃんと食べんと、稽古に身が入らんで」
 ラリはぼんやりしたまま、彼女の言葉に注意さえ払っていないようだった。
 いつもどこか飄々としているこの子の、こういう反応は今まで見たことがない。余程のことがあったのだろうか。
「今日は、稽古は休みだ」
 不意に、ブランクがそう言い出した。
「稽古に集中できるようになるまで、ずっと休みだ」
「何言うとるん、本番はすぐそこやで?」
 ルビィが言ったが、ブランクはコーヒーを一口啜り、「とにかく休みだ」と繰り返した。
「全員で解決しろよ。解決するまで、俺は一歩も動かないからな」
 ハリーが何か言いたそうな目をしたが、小さく頷いてまた俯いてしまった。






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