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そんなわけで、前倒しで『双子の月』の稽古が始まり、『十二夜』のみ出演予定の子供たちは全員、突然の休暇を貰うことになってしまった。
『双子の月』にはブランクとルビィも出演するので、アジトには子供たちだけが居残ることになる。
気まずい雰囲気のまま、それぞれ与えられた当番の仕事をこなし、昼までの時間を過ごした。
昼時には大人たちがアジトへ戻って食事を取るため急に賑やかになったが、昼が過ぎると賑やかだった分、更にアジトが静まり返った気がした。
サファイアは耐えられなくなって、干し終わった洗濯物を眺めるのを止め、話し相手を探しに行った。
リアナは居間からぼんやりと外を眺めたままだった。あまり声を掛けやすい雰囲気ではなかったので、サファイアはその傍を静かに通り過ぎた。ジェフリーは部屋にいなかった。どこへ行ってしまったのか、彼女にはわからなかった。ラリは部屋にいたが、ベッドに寝転んだまま物も言いそうになかった。
ハリーは屋根裏部屋で書庫の片づけをしていた。
「どうしたんっスか?」
彼はダンボールの中に積まれていた古い台本を棚へ移していた。作業を続けながら、サファイアの気配に声を掛ける。
「なんか、何もすることないなぁと思って」
「洗濯は終わったんスか」
「とっくに」
ハリーは小さく鼻を鳴らして笑った。
「ハリーは? 掃除終わったの?」
「もうここ以外に片付けるところなんてないっスよ」
「そっか」
サファイアも曖昧な笑みを浮かべた。
しばらく黙ったまま、ハリーはダンボールから台本を取り出して棚に並べ、サファイアはその様子をじっと見ていた。
「どうしてこんなことになっちゃったのかな」
サファイアはふと呟いた。
「ジェフリー、すごく怒ってたね」
「そりゃそうっスよ。姉弟っスから」
「ホントにそんなことしたのかな、ラリ。あたしは信じられないよ」
「俺も信じられないっス」
ハリーは手を止め、サファイアを見た。
「ラリさんは、ずっとリアナさんのことが好きだったんだと思うっス。もちろん、ラリさんはそんなこと一言も話したことないっスけど」
「そうなんだ」
サファイアは少しだけ目を瞠った。
ないことではないとは思ったが、ラリはそんな素振りなど微塵も見せなかった。
「役が悪かったっスね。今度の公演の」
ハリーは再び台本を片付け始め、サファイアはその横顔を窺いながら小さく頷いた。
「リアナのことがずっと好きなのに、振られちゃう役だもんね」
自分が主役でなければ。リアナがヴァイオラの役をやっていたら、こんな風にはならなかっただろうか。
「サフィーさんのせいじゃないっスよ」
察したように、ハリーは言った。
「どっちにしろ、女の子は二人しかいないんス。ラリさんが公爵以外の役を貰うはずもないし」
それで、リアナがヴァイオラの役をやっていても、結局ラリには辛いことになったのだろうとサファイアは思った。
もし、片思いだったら。どれだけ哀しいだろう。どれだけ辛いだろう。
サファイアは想像してみようとしたが、あまり上手くいかなかった。
「それに、プロとして失格なんスよ、私情を舞台の上に持ち込むなんて。だからボスは怒ったっス」
「うん……」
サファイアは曖昧な返事をした。
だって、役者だって人間だから、私情が挟まっても仕方がないと思うのに。
ふと、
「サフィーさんは、ジェフリーが舞台の上で誰か女優さんとラブシーンを演じることになったら、どうするんスか」
そんなこと、万に一もなさそうだったが、ハリーは興味本位で訊いてみた。
「え?」
途端に目を丸くして、サファイアは顔を上げた。
「えーっと……」
再び俯くと、ほんのり頬を染めた少女は一生懸命考えているようだった。ちょっと意地悪な質問だったかと、ハリーは苦笑した。
「それが仕事だから、気にしないと思うわ」
やがてサファイアは顔を上げて答えた。
「そうなんスか」
「わかんない。その人が大人っぽくてすごく美人だったら、気にするかも……」
ハリーが思わず噴出すと、「真面目な話なのに!」とサファイアは頬を膨らませた。
「でも、ラリさんだっていつかこういう日が来ることはわかってたと思うんスけどね」
欲しいものをただ黙って見ていることはできなかった……そう言った旧友の思い詰めた顔を、ハリーは思い出していた。
欲しいものを欲しいと言わないのは、本当はとても辛抱の要ることなんだろう。
「ハリーは、好きな人いるの?」
不意にサファイアが、思いついたように訊いた。
「いるっスよ」
ハリーはにっこり微笑んで答えた。
「そうなの? 誰? あたしの知ってる人?」
しかし、それには答えなかった。再び屈み込んで、段ボール箱の中を確かめる。
まだまだ、台本が山のように残っていた。
「片思いなんスよ」
ハリーははぐらかすようにそう言った。
「相手の人には、好きな人がいるんっス」
「そうなんだ……」
サファイアは残念そうな顔をした。ちょっと滑稽な気分になって、ハリーは小さく笑った。
「でも、いいんスよ。俺は、その人が幸せならそれでいいっス」
それは、本当だった。欲しいとは思わなかった。手が届くとも思わなかったが、奪いたいとも思わなかった。
本当に「欲しいもの」だったら、きっと「黙って見ている」なんてことはできないのかもしれない。そうだとしたら、自分が抱えている想いは贋物なのだろうか。
サファイアは、ハリーの言葉に切ない響きを感じて、黙り込んでしまった。
「俺は、ラリさんとは違うみたいっスね」
ハリーが溜め息混じりに言うと、サファイアは「うーん」と唸った。
「そうなのかな」
「え?」
ハリーが手を止めて見ると、サファイアは少しだけ首を傾げて、
「ラリだって、リアナが幸せでいてくれたら嬉しいんじゃないかな。傷つけたいなんて思ってなかったと思うの」
サファイアは、古い台本を一冊手に取って、見つめた。
「幸せにしてくれる人も特別だけど、幸せでいて欲しいって願ってくれる人も、やっぱり特別だと思うから。誰でも心からそう願ってくれるものじゃないでしょ?」
彼女は、台本の表紙に小さく書かれた父の名を指で撫でた。
「それ、ボスたちのデビュー作品っスよ」
「これ?」
『オズの魔法使い』と書かれた古い台本はくたびれかけていた。
「サフィーさんのお父さんは、確か十四歳くらいの頃っス」
「うわぁ、すごい」
彼女はあっという間に台本に夢中になってしまい、ハリーはその様子を少し呆れた笑みで眺めた。
特別、になれるのだとしたら。
こんな自分でも彼女の特別になれるのだとしたら、きっといつまでも、永遠に彼女の幸せを願い続けるだろう。
ハリーは、今度は呆れたように自嘲して、また自分の作業に戻った。
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