<3>




「―――何の本読んでるの?」
 ごろんと寝袋に寝っ転がり、うつ伏せで頬杖をついて、ジタンは尋ねた。
 ランプの明かりを頼りに、フライヤは古い小さな本を読んでいる。
「イプセンの旅日誌じゃ」
「イプセン?」
「知らぬのか。昔の冒険家じゃ」
「ふぅん……」
 暇そうに、足をパタパタさせる。
 ついでに、尻尾もパタパタと揺れている。
「なんて書いてあるの?」
「……『手紙が届いた。雨に濡れたのか、ほとんど読めぬ。かろうじて読めたのは「家へ戻れ」という部分のみ。何かあったのだろうか。屋敷主に暇を貰い、友人のコリンとトレノを旅立つ。しばらく厳しい旅が続き、ある時ふと気付いた。なぜ、コリンが共にいるのか? そこで、私は彼に尋ねた。どうして来たのか、と。すると、彼はこう答えた。お前が行くからだ、と―――』」
 フライヤが音読する間、ジタンは大人しくして、じっと耳を傾けていた。
「―――友達かぁ」
 不意に、ぽそりと呟く。
「フライヤにはそういう友達っている?」
「そうじゃなぁ。おると言えばおるやも知れんが―――国の者はみな同胞じゃからな。こういった親友、という関係とは少し違うやも知れん」
「ふぅん―――」
 ジタンは顎の下で組んでいた手を解くと、枕に顔を埋めた。
「オレはいるよ、そういう仲間」
「ほぉ、それはよいことじゃな。大事にせねばならぬ」
「―――うん」
 青い目が曇ったので、フライヤはおや? と首を傾げた。
「なんじゃ」
「うん―――もう、ダメかもな、って」
「ほぅ?」
 フライヤは眉を上げた。
「喧嘩したまま、出て来ちゃったから―――」
「喧嘩したくらいで駄目になるような仲じゃったのか?」
「う―――ん……でも、オレが一方的に遠ざけてたから……きっと、気ぃ悪くしたと思う」
「何故遠ざけたのじゃ」
 ジタンはフライヤの顔をじっと見て、急に起き上がった。
「なんじゃ?」
「あのさ―――オレも一応男なんだけど、なんで一緒のテントなの?」
 フライヤは一瞬まじまじとジタンを見つめ、次に思い切り噴き出した。
「―――何を言うかと思えば!」
 ジタンはがっかりしてまた元のように寝そべった。
「ちぇ、意識ゼロか―――」
「当たり前じゃ。おぬしのような子供など、本当に全くもって一応男のようなものじゃからな」
「……そこまで言う?」
 フライヤはひとしきり笑ってから、
「おぬしが嫌なのなら、二つテントを使ってもよいがの。旅では節約が重要じゃからな」
 ジタンは別に、と呟いた。
「オレだって、フライヤみたいな年増、どうでもいいんだからな。オレはもっと、可愛くて花みたいな女の子が好きなの!」
「ほぉ、言うのう、おぬし」
 ちっとも怒らないフライヤを横目で見て、ジタンは溜め息をついた。
「フライヤもさ、やっぱりワイルドで頼れるカッコイイ男が好き?」
「―――?」
 フライヤは一瞬目をまるくし、次に顎に手を当てて考えながら言った。
「そうじゃのう。どうせなら、頼り甲斐のある包容力の大きい人物の方がよいが」
「やっぱりな」
 と、深々と溜め息をつく少年を、フライヤははて、という顔で見つめた。
「やっぱりさ、チビで女顔で腕相撲が弱いのはダメだよなぁ―――」
 と、大変深刻そうな顔で呟くジタンに、フライヤは再び笑いを堪えきれなくなった。
 くっくっ、と抱腹して可笑しそうに笑うフライヤを虚ろな目で見て、ジタンはまた溜め息をついた。
「―――フラれちゃったんだ」
 と小さな声で告白する。
「その子さ、よくアジトに遊びに来たいって言って、喜ばせようと思っていつも連れていってたんだけど。ある時、二人でデートしようって誘ったら、あっさり断られた」
「チビで女顔は嫌だと言われたのか」
 と、まだ笑い顔のままフライヤが尋ねる。
「そこまでは言わないけど」
「では、ワイルドで頼れる男がよいと言ったのか?」
「―――たぶん、そういうことだと思う」
「?」
 ジタンは枕の上で組んだ両手に頭を乗せて、遠くを見るような目をした。
「ブランクのことが好きなんだって。ずっと好きだったんだってさ」
 フライヤは黙って片方だけ眉を吊り上げた。
「そう言われてから、何だかブランクと顔合わせるのが気まずくて、でも同じ部屋だから毎日朝から晩まで顔合わせなきゃいけなくて、それで何となく避けちゃって……」
 と言ったきり、ジタンは黙り込んだ。
「そのブランクが、おぬしの親友か?」
「―――うん」
「その程度で信頼が薄れる仲じゃったのか?」
「わかんない。でも、戸惑ったと思う。しかも、そのままオレ、アジト飛び出して来ちゃったから。きっと嫌われたと思う」
「おぬしは―――」
 フライヤは青い目を覗き込んだ。
「その娘に振られたことより、どうやら親友と気まずくなったのがショックじゃったようじゃな」
 ジタンはしばらくフライヤの緑色の目を見ていたが、やがて俯いた。
「……そうかも」
「帰って誤解を解いてくればよかろうに」
「今更帰るわけにいかないもん」
「何故じゃ? おぬし、そのタンタラスで育ったのじゃろうが」
「―――そうだけど」
「喜んで迎えてくれる友人がおるのじゃろう?」
「……うん、たぶん」
「そういう場所が、本来の故郷なのだと私は思うぞ」
「―――え?」
 ジタンは起き上がってフライヤを見た。
「故郷というのは心のある場所のことじゃ。心のある場所とは、必ずしも生まれた場所とは限らぬ。うむ、場所、ではないの。心の帰るところは、人、なのやも知れん」
「―――人?」
「そうじゃ。いつか帰る場所―――それは自分を愛し、いつ何時でも暖かく迎えてくれる人のいる場所じゃ」
 ジタンは黙ったまま瞬きを繰り返した。
「私ものう、故郷ブルメシアを黙って飛び出して来てしもうた。王宮に仕えておったというに、国王の許しも得なんだ。―――しかしの、彼処はもう、私の故郷ではないのじゃ。フラットレイ様が去られたとき、私の故郷はあの方と共に去ってしまった」
 フライヤは小さく微笑んだ。
「じゃから、私はあの方を捜し続けておる。私の拠り所である、あの方を」
 しばらく沈黙が続いた。
 森の方で、フクロウのような鳴き声がする。
 フライヤは幾度か頭を振った。
「―――もう夜も更けたの。そろそろ寝ると致すか」
 そう言うと、ランプに手を伸ばす。
「ほれ、暗くなる前にしっかり寝袋に入っておかぬと。風邪をひいても知らぬぞ」
 ぼんやりしていたジタンははっと我に返り、黙ったまま頷いて寝袋に包まった。
「よいか? 消すぞ」
 ランプの明かりが落ち、テントの中には淡い月の光が射し込んでいた。
「今日は新月じゃの。青い光しか見えぬな」
「―――うん」
「おぬしの故郷は、このような色なのかのう……」
「―――もっと強い光だった」
 ジタンは呟いた。
「もっと強くて、もっと冷たくて……もっと怖くて―――」
「その、怖い、というのがようわからんの。怖いと言うと、どのように怖いのか?」
「――――……」
 ん? と隣の様子を窺ったフライヤは、やがてにっこり微笑んだ。
「なんじゃ、もう寝てしもうたのか」
 文字通り、スヤスヤと可愛らしい寝息を立てて眠る少年を、フライヤは頬杖をつき、月の明かりのみを頼りに見ていた。

 随分前、大人になる過程でどこかに落とし、そのまま忘れ去ってしまったものを取り戻したような気分だった。
 それは、幼くてあどけなくて、けれど必死に生きることを主張して意地を張る。


 強く光る魂の炎のようなものだった―――。






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