Be Father


<1>



 夏の終わりの穏やかな午後。
 開かれた窓からは、時折秋を感じさせる爽やかな風が舞い込み、淡いアイボリーのカーテンと、金色の髪の毛をさらさらと揺らした。
 ジタンは、いつもは彼の妻が執務に使う机に向かい、山積みになった書類を一つ一つ片付けているところだった。
 ―――というのも。妻が長男を産んだため、しばらく公務の代理を買って出ていたのだ。
 この仕事、欠伸が出るほど退屈な代物だった。
 が、碧色の瞳は存外真剣そのもの。
 ふと顔を上げて鋭い質問をするので、同席している時は少しも気が抜けなくて困る、と大臣たちは愚痴をこぼした。
 そして、その訴えを聞いたトットは、かのリンドブルムの文臣に密かなる感謝の意を表した。


 そんなわけで、こんな天気のいい晩夏の午後、彼はじっと座って書類と戦っていた。
 はっきり言って楽しくない。
 妻に対する責任感がなかったら、こんな仕事とうに投げ出して、酒場かトレジャーハンティングにでも出かけているところだったろう。
 実際、彼は何度か仕事を投げ出して遊びに出ており、その度に大臣たちをひどく困惑させた。
 そしてそんな時、ガーネットはにこにこと笑いながら執務室の片隅に子供を寝かせ、彼が帰ってくるまでに、彼が投げ出していった仕事を全て片付けてしまうのだった。
 しかし、彼女にそうさせるのを、ジタンは好まなかった。
 長女が生まれた時、「これまで通り仕事をする」と言ったガーネットに、「オレが代わりにやる」と言ったのは、他でもない彼だった。
 城には子育てに長けた乳母たちが常駐していたし、忙しくなければ彼女一人で十分国王の仕事をこなせたが、母のなかった夫は、とにかくガーネットを子供の側に置かせたがった。それで、彼女は出産日が近くなったころから出産後半年は、仕事を休むことにしたのだ。
 これは、城に勤める女性兵たちに倣ったもので、ベアトリクスも三人の子を産む時にそれぞれ同じように休みを取っていた。
 仕事を持つ母親の先輩として、ガーネットは彼女に、何かと相談することが多くなっていた。
 ガーネットは最近、一つの悩みを打ち明けた。
 ジタンが、あまり子供と関わろうとしない、と。それはもう、溢れるばかりに愛情を持っているはずなのに……。
 ベアトリクスはにっこりと微笑み、こう言った。
「どう接したらいいのか、わからなくなっておいでなのでしょう。何かきっかけがあれば父親らしくおなりですよ、きっと」
 しかし、ガーネットはどんなきっかけを作ったものかと、毎日悩んでいた。


 娘はよく喋るようになっていた。
 ただ眠り、ただ泣く赤ん坊ではなく、一人の人間として自我を持ち始めていた。
 そして、娘の自我が芽生えれば芽生えるほど、夫は子供を遠巻きにするようになった。
 夜遅くまで仕事をし、子供たちが寝てしまってから部屋に帰ってくる。
 そして、少し寂しそうな顔で、何時間も飽くことなく寝顔を眺めているのだ。
 無理もない。親を知らない彼には、親になるのがまず難題なのだ。
 ガーネットは何も言わず、ただ愛情深く夫の変化を待った。



***



 お茶の時間も済んだこの時間、城の中は物音一つしないほど静かだった。
 ジタンはせっせと休むことなく手を動かし、ともすればうつらうつらしてしまいそうな自分の瞼を叱咤していた。
 その日は部屋にジタン一人きりで、誰かと話をして目を覚ますことも出来ず。
 ペンを持ったまま、う〜ん、と伸びをしたところ。
 開けてあったドアの向こうを、小さな影が通り過ぎた気がした。
 ジタンはギクリとして、独りごちた。
 ―――まさか、な。
 いや、気のせいだろう。
 まさか、あの小さな娘が一人でこんなところまで来るわけがない。
 そうだそうだ、そんなわけがない。
 ジタンは一人頷くと、もう一度書類に目をやった。
 しかし、一度気になってしまうと、なかなか落ち着かない。
 城の中でも、居住区は子供たちが怪我をしないようにと、ガーネットがいつも気を配っていた。
 でも、執務区のこのあたりは、廊下に無造作な段差があったり、置物の台座が置かれていたり、きっと小さな子供には危険がいっぱいだ。
 ……いや、誰かが見張ってくれているに違いない。
 きっと、ガーネットか乳母が追いかけてくるだろう。
 第一、あれが娘と決まったわけでもないのだし。


 ジタンが頭を振り、嫌な考えを追い出そうとした時。
 ―――遠くの方から、子供のつんざくような泣き声が聞こえてきて。
 ジタンはガタッと立ち上がった。
「……エミー?」
 居住区の泣き声が、ここまで聞こえてくるはずがない。
 城の中に、他に子供はいない。
 心臓が締め付けられるように痛み、ジタンは部屋を飛び出した。
 ―――変な泣き方だった気がする。ダガーが言ってたな、子供が変な泣き方をするのは危険な兆候だって。
 どうしよう、と、うろたえながら泣き声の方へ走る。
 すぐに追いかけていればこんなことには……と、彼の胸にはぐるぐると後悔の念が湧き上がった。
 娘の姿を探しながら、廊下を超速急で駆け抜けようとした時。
 丁度プルート隊の控え室のドアがほんの少し開いているのに気付いた。
 そして、子供の泣き声はそこから漏れていた。
 勢い込んで、思い切り扉を押すと。
 困り顔の兵隊二人の前で、二歳の娘が盛大に泣いていた。


「あ、ジ、ジタン様!」
 と、兵士の一人が気付いて、顔を上げた。
「わ、あわわ、申し訳ありません! 姫さまが突然……」
 慌てる兵士。
 ジタンは無意識のうちに、ガーネットがよくするように娘を抱き上げた。
 途端に、エメラルドはぴたりと泣き止んだ。
 おお、と歓声を上げる兵士たち。
 娘は大きな黒い瞳で、じっと父を見た。
 瞬きする度に、溜まった涙が大きな粒となって零れ落ちる。
 父も、青い瞳で娘をじっと見つめた。
 こんなにじっくりと娘と対峙するのは、実はこの子が生まれて間もない頃以来なのではないかと、彼は頭の片隅の方で考えた。


 やがて、娘はにっこりと、花が咲くように笑った。
「おとーさま!」
 小さな両手を伸ばすと、エメラルドはジタンの首に縋り付き、きゃっきゃと笑い声を上げた。
 あどけない、可愛らしい仕草。小さな体から緊張が解け、安心しきったように全体重を腕に預けてくる。
 ……その、瞬間だった。
 ジタンは娘がこの上なく愛しいことに気付いた。
 頭で「愛しいもの」と解釈するのでなく、心の奥底から、湧き出るように愛しいのだと。
「エミー」
 ジタンは、幼い背中をしっかりと抱きしめた。
「ダメじゃないか、一人で部屋を抜け出しだりして」
「ごめーなさい」
 彼女はしゅんとなって父を見た。
「あのね、いいにおいがしたの」
「いい匂い?」
「ああ!」
 と兵士の一人が声を上げる。
「料理長が、姫さまのためにクッキーを焼いている匂いですよ、きっと」
「くっきぃ!」
 エメラルドは瞳を輝かせた。
「えみぃ、くっきぃすき!」
「そっか。よかったな」
 そこにいたのが若い兵士たちだけでよかったと、後になってジタンは思った。旧知の人間には見せられないような顔で、自分は笑っていたに違いない。
 ジタンは至極父親らしい微笑みで娘の顔を覗き込んでいた。
「でも、勝手に部屋を出たらダメだぞ。母さんが心配するからな」
「はい」
「よし、それじゃ帰るか」
 二人の兵士は、「乳母を呼んでまいりましょうか?」「そのようなことをジタン様がされては……」とあたふたしていたが、ジタンはニッと笑って、
「オレの娘だもん、オレが連れて行くのが当たり前だろ?」
 そして、目を丸くする兵士たちに向けて、娘を抱いたまま頭を下げた。
「ほれ、エミー。お世話になりました、って」
「おせあになりました!」
「んじゃ、ありがとな。仕事、邪魔して悪かった」







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