生まれ来る日
<1>
ガーネットは物憂げな目を窓の外に向け、小さく溜め息を吐いていた。
珍しいことだった。最愛の人と結婚し、二人の子を儲け、幸せの絶頂にある女王は、国民にも家臣たちにもずっと笑顔を見せ続けてきていた。
「ガーネット様」
ベアトリクスがその名を呼んだ時、女王はまだ窓の外を見ていた。
「お顔の色が冴えませんが……どこかお具合でも?」
「いいえ、ベアトリクス。大丈夫」
女王は未だ物憂げにそう答えただけだった。
「暖かなお飲み物でも持たせましょうか」
「いいえ、大丈夫よ」
「この季節は日ごとに寒くなって参りますね」
窓の外では、雪でもちらつきそうな空が灰色の不機嫌な色を見せていた。
「そうね」
ガーネットはそれを見上げてから、もう一度小さく息を吐いた。
小さな王子が春に生まれて、今はもう8ヶ月にまで大きくなっていた。
まだまだ母の恋しい赤ん坊ではあったが、その子を居住区に残し、ガーネットは女王の執務に復帰したのだった。
それと同時に国王の仕事から解放されたジタンは、まるで糸の切れた凧のごとく、城を飛び出して帰ってこなくなった。
そう、もう三週間も帰っていないのだ。
ベアトリクスはふとそのことに思い至り、書類から顔を上げた。
「ガーネット様、ジタン殿は随分と遠出をなさっていますね」
窓から離れてやっとペンを握り締めたガーネットも顔を上げた。
「そうだった?」
「直にひと月にもなりますよ。お珍しいことです」
「何か楽しいことでも見つけたんでしょう、そのうち帰ってくるわ」
ガーネットはそう言った。まるで何も気にしていないような口ぶりだった。
しかし、長年彼女の側に仕えてきたベアトリクスは、その響きに何か違和感を覚えた。
「ジタン殿から、お手紙などは届いているのですか?」
「いいえ」
「お沙汰は?」
「ないわ」
再び机の上の白い長方形に目を落とした女王は、何の感慨もない声で答えた。
「ガーネット様」
ベアトリクスはその時初めて、この夫婦にとんでもないことが起こったことに思い至った。
「何かあったのですね?」
「まぁ、何があったって言うの、ベアトリクス?」
ガーネットが再び顔を上げ、さも驚いたように目を瞠った。
「私を騙そうとしても無駄でございます」
「ベアトリクスったら、騙すって一体何のこと?」
「ガーネット様!」
あくまで吃驚した表情を崩さない女王に、ベアトリクスは顔を顰めるしかない。
「私には何でもお話いただけるものと思っておりましたのに……」
「だって、話すことなんて何もないわ」
今度は困ったように眉を顰める。
「わかりました……もう何も聞きません。ただ、お話になりたいとお思いになられたら、どうか私のことを思い出してください」
こうと決めたら頑固な女王のこと、ベアトリクスはすぐに引き下がった。
「――ええ、そうするわ」
そう答えたガーネットは、妙に空虚な声色だった。
***
妊娠に気付いたのは、つい数日前だった。
前の出産から僅か8ヶ月で、次の子が宿った。もちろん不自然なことでも珍しいことでもなかったが、ガーネットは胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
女好きで遊び人と言われた夫だったが、結婚してすぐにわかったのは、思っていたよりずっと慎重な人だということだった。
家族を持つことに憧れを抱き、同時に不安を抱えていたジタン。
その頑なな心を、ガーネットの存在が少しずつ解いていたのだ――ガーネット自身が、そのことに気付いていなかったとしても、真実としてそうだった。
ジタンとガーネットの心は、周りが思っているよりもずっと強く結ばれていて、ジタンはガーネットをそれは大切にした。そのこともまた、疑いようもない事実だった。
……それなのに。
あの日の彼はおかしかった。
まるで――トランスした時のような目をしていた。
小さな娘が心配そうに見上げているのに気付いて、ガーネットは目線を落とした。
「どうしたの、エミー?」
「ダイアンが泣いているの」
ガーネットははっとして耳を澄ましたが、息子の泣き声は聞こえなかった。
「泣いていないみたいよ?」
「泣いてるのよ。お腹が空いているの」
ミルクは乳母が十分与えているはず。この子は一体何を言っているのだろう?
「エミー」
屈み込むと、少し眩暈がした。前の二度の妊娠では、ガーネットは至って健康で元気だった。けれど、今度は、前の二回とは全く違った。
「あなたにはわかるの?」
そう聞くと、幼い娘は確かに大きく頷いて見せた。
「……そう。そうなのね」
勘の鋭いその子は、ベアトリクスにしたように誤魔化しても、決して誤魔化されてはくれなかった。
「お父さまは、すぐに帰ってくるわ」
最後に見たジタンの表情は、気まずさと後悔が入り混じったようなものだった。
それから何かを呟いて、するりとどこかへ逃げてしまった。
――そう、彼は。いつもわたしの両手からするりと逃げていくのだわ。
「喧嘩をしたわけではないのよ。ただ、お父さまはお母さまに怒られると勘違いしているの」
「悪いことをしたのね?」
「……いいえ」
ガーネットは小さく頭を振って、また眩暈を起こしそうになった。
「人にはね、そんなつもりがなくても、そうせざるを得ないような時があるものなのよ」
エメラルドは数度瞬きして、頷いた。言葉の意味がわかったはずもなかったが、何かを理解はしたのだろう。
「お母さまは、お父さまのことを怒ってないのね?」
「怒ってなんかいないわ」
ガーネットは微笑んだ。
「ちっとも怒ってないわ。お父さまのことが大好きだから」
そう言うと、エメラルドは納得してもう一度頷いた。
「お父さまにそう言ってあげて、お母さま」
『言ってあげない』のは、ガーネットなりの考えがあってのことだったが、エメラルドの的を射た言葉にはいつも胸を突かれた。
「お父さま、きっと困ってるのよ」
「……ええ、そうかもしれないわね」
実際、本当に困っているのだろう。
でも、どうすることもできないのでしょうよ。
あの人はちゃんとわかっているはずなのに。
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