<15>




「あ……!」
 マーカスが、かなり遠くなったアレクサンドリアを指さした。
「ま、町が……」
「燃えてるずら!」
 シナが飛び上がって言った。
「馬鹿は休み休み言えよ。燃やすわけねぇだろが。ありゃ、ただの松明だよ」
「じゃ、じゃぁ……?」
「知ってるか。民衆蜂起。戦争が絶えなかった時代にはよく起こったもんさ」
 バクーは目を細めて言った。
「ついに火をつけちまったんだよ。一般市民の心にな」
「どうなるっスか」
「さぁな。ここで様子を見ていることしか、俺たちにゃぁ出来ねぇしよ。悪くすりゃ、貴族の邸宅街は燃えるかもしれん」
「そんなぁ……。そんなことになってもうたら……」
「アレクサンドリアは生まれ変わらにゃいかん時期に差し掛かったんだ。時代ってのはそういうもんさ」
 バクーは一人頷いた。しかし、その目は厳しさを秘めていた。









「貴族の野郎!」
「出てこい!」
「出てこなかったら火をつけるぞ!」
 松明を持った群衆がそれぞれ貴族の邸宅に押し掛けていた。
 このリンゼン卿宅も例に漏れることなく。
「だ、旦那様!」
 年取ったメイドがわたわたと走ってきた。
「警備兵はどうした!」
「父上、無駄です。数が数ですから」
 ハロルドは父をなだめた。
「彼らと話をするしか……」
「ハロルド! なぜわしがあのような者たちと話など……」
「父上!」
 ハロルドは今まで一度も見せたことのないような剣幕を、父に見せた。
「父上、私はこの一年、友人たちに訴えてきました。なぜ身分の差などあるのか。なぜ、身分などというものが、我々の人生の隔たりとなるのか」
「ハロルド、何を馬鹿げたことを……」
「馬鹿げてなどおりません、父上。友人たちは、初めは戸惑い、私の考えを受け入れませんでした。しかし、少しずつ、段々と理解者は増え始めました。私たちはよく話し合いました。町へ出て、人々の話も聞きました。そして、我々は結論に達したのです」
 ハロルドは小さく息を吸った。リンドン卿は気圧されて言葉も出ない。
「生まれたのち人為的に着せられた『身分』などという笠が、人が生まれ持った『誰かを愛する心』、『誰かを想う心』の障壁となるなど、なんと愚かなことかと。一部の人間のみが権益を得られる世の仕組みの、なんと情けないことかと。そして、私たちは誓いました。必ず、世を変える。我々の時代が来たときには、ガーネット女王陛下とジタン殿が共に歩んで行ける社会にしよう、と」
「な、何を……」
「まだ、話は終わっていない!」
 ハロルドは父親に詰め寄った。リンゼン卿は思わず後ずさった。
「今日、思いがけず民衆が立ち上がってくれた。我々の誓いを叶える日が早く来たのです。いや、あの二人にとっては遅すぎたかもしれない……罪深きことだ……」
 ハロルドは目を閉じた。
 リンゼン卿は額の汗を拭った。
「お前は……」
「父上は迷っておられました。身分違いという言葉をあなたは決してお好きではなかった。……私は知っています。父上は母上以外に、お好きな方がおられた」
「―――ハロルド!」
「でも、身分の差が邪魔をし、お二人はついに結ばれなかった……。彼女は非業のうち、戦乱に紛れて亡くなってしまった。お祖母様から伺いました」
 ハロルドは褐色の瞳を、夕焼けのように赤く染まったアレクサンドリアの町に向けた。
「お祖母様はおっしゃっていました。もし時代が変わるなら、自分はそれを受け入れる、と。恐らく、父上もそうされるだろうと。私は、あなたを信じている」
 リンゼン卿を呼ぶ声が部屋まで聞こえてくる。
 彼らは本気だ。このままでは火をつけるかも知れない。
「わかった」
 父親の呻り声に、ハロルドは目を見開いた。
「階下へ降りる。彼らと話をしよう。お前は家の中に居れ」
 言うが早いか、リンゼン卿は身を翻して部屋を出た。


「リンゼン卿だ!」
「俺たちの話を聞け!」
 松明が赤々と照らし出す顔を見渡し、リンゼン卿ははっきりと言った。
「火をつけるのは待ってくれ。中にはまだ、家族や使用人が残っている。お前たちの要求は何だ」
「……まず、リンドブルムとの戦争の白紙化!」
「それから、女王陛下の結婚を陛下の自由にして差し上げることだ!」
「貴族に偏った権利を女王様にお返ししろ!」
「そうだ! あの方は、傷ついた町や国民のために、自らの身をお削りになるような方だ。俺たちの、たった一人の君主様だ」
「お前ら貴族に俺たちの何がわかる!」
 そうだそうだの声が上がる。
「聞き届けられぬ場合、お前の館に火をつける」
「……わかった」
 リンゼン卿は強く頷いた。
 なに? と群衆が色めき立つ。
「もちろん、私一人で決められる話ではないが……。何とか議会に持ちかけようではないか。だから……」
「俺たちの言う通りにするってのか?」
「そうだ」
 ざわざわと、群衆がざわめく。
「そんなに火をつけられるのが恐いか!」
「そうではない」
「なら、何だ!」
「―――残したいのだ、息子たちの世代に。胸を張り、堂々と『生きることは素晴らしい』と言えるような社会を、な」
「父上!」
 それまで扉の向こうでやり取りを聞いていたハロルドは思わず扉を開けた。飛び出してきたハロルドに、リンゼン卿は慌てて言う。
「お前は家の中にいるように言っただろう!」
「大丈夫です」
 ハロルドは群衆に顔を向けた。途端、松明に映し出された顔を見て、何人かが口走る。
「おや? あんたは……」
「あんた、リンゼン卿の息子だったのか!」
「はい。父には私が話をしました。私が責任を持って説得します。だから、罪になるようなことはやめてください、皆さん」
 群衆はお互いに顔を見合わせ、頷き合った。
「ま、あんたがついてるんなら、な」
「俺たちは他の屋敷に行くぜ」
「絶対約束だからな。頼んだぞ!」
 ハロルドがしっかり頷き、リンゼン卿宅の前に集まった群衆は散っていった。



***



 リンゼン卿を初めとする貴族たちは、娘息子に諭され、群衆の言い分を呑んだという。
 同じ年頃の子供を持たない貴族たちも、その知らせを聞いて群集に屈した。
 1806年1月16日未明。
 アレクサンドリアにおける民衆蜂起は沈静化した。













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