<8>
ハロルドはあの日以来、屋敷の部屋に軟禁されていた。
しかし、このまま引き下がるわけにはいかないと彼は思っていた。
あの男は、ジタン・トライバルという男は、騎士の中の騎士のような男だった。
確か、リンドブルムの将校だと聞いた。
あの大戦でガーネット女王の御命を身を挺して守り、闇を砕き、一度は死んだと伝えられた。そのため、リンドブルム大公から将校の地位を与えられたと伝え聞く。
しかし、彼は生きていた。
生きて再び、愛する人の元へ帰ってきた。
リンドブルムの劇団が芝居を上演している最中、彼が観客の目の前で女王を抱きすくめたのはあまりにも有名で、また、女王がずっと彼の帰りを待っていたのも有名だった。
リンドブルムでは世界を救った英雄と謳われているらしいが、このアレクサンドリアでは、どちらかと言えば、「女王の想い人」で通っている。
と言っても、これは庶民の間の通り名で、貴族たちがあまり芳しい表情をしないことは本人たちも知っていたのだろう。
リンドブルムのシド大公は彼を買い被りすぎだとか、どこの馬の骨とも知れぬ者を城に上げてよいのかとか、そんなことを眉をひそめて話しているのを聞いたことがある。
でも、シド大公の人を見る目は確かなように思われる。
あの男の目は語っていた。
無駄に誰かを傷つけるようなことを、自分は好まない、と。
無駄に誰かを悲しませるようなことを、自分はしたりしない、と。
その瞬間、この男がどれだけ女王を愛しているか、また、自分が絶対にこの男に勝てないと―――それは、剣だけでなく、女王の愛情に関しても―――感じたのだ。
身分の低い男が出過ぎたことを、と思っていた自分を恥じた。
盗賊風情が、と思っていた自分を恥じた。
最初からハンデのある戦いを挑んだ、自分を恥じた。
身分の差で、最初から自分が勝つだろうことをどこかで当然視していた、自分を。
ハロルドは、窓から身を乗り出してみた。
三階。
ここから飛び降りるだけの自信はない。
しかし、あのジタンならば、こんな高さわけもないはずだ。
何せ、元盗賊なのだから。
……何もかも負けているような気がする。
そう思うと、どうしても行かなければならないという思いが強くなる。
自分でまいた種。自分で刈り取らねば……!
窓枠を乗り越え、二階の窓の庇を足で探す。かなりの高さに、知らずに足が震える。
もし落ちて怪我でもすれば、ますますジタンに悪いことになる。父上は、この怪我を見よとばかりに人を呼ぶかも知れない。
慎重に滑り、足が庇に届くと少し安堵する。
今度は、その庇を起点に更に下へと足を伸ばす。
二階の窓の桟に足を置きいたとき、窓が開いていることに気付いた。
しめた!
ハロルドは二階の部屋へ飛び込んだ。
ここは図書室。ここから部屋を飛び出せば、誰にも見られずに外へ行ける。
……しかし、悪いことに。図書室には客人がいた。
窓が開いているということは誰かいるということだと、なぜ思い至らなかったのか。
思わず立ちすくんだハロルドに、その客人は眼鏡の奥から笑い掛けた。
「おやおや、これは。ハロルド公子ではありませんかな?」
客人は読んでいた本を閉じ、立ち上がった。
「なかなか奇抜なご登場ですな」
ハロルドは焦燥した表情を隠せなかった。
「あ、あの……」
「これは、申し遅れました。私はアレクサンドリア文相、トットと申します。お見知り置きを」
ゆっくりと喋ると、お辞儀する。
「ハロルド・リンゼンです。その……失礼。急いでおりまして」
しかし、トットは目の光りに強さを増し、彼を引き留めた。
「お急ぎの理由は、ジタン殿ですかな?」
思わず、目を見開いて驚く。
「ご、ご存じなのですか、彼を?」
「よく存じ上げておりますよ」
ハロルドは息を呑み、次に思わず大声を上げた。
「あれは嘘なんです!」
トットは「ほぉ」と声を漏らした。
「では、スタイナー殿のおっしゃっておられたことが、誠なのですかな?」
「そうなんです」
ハロルドはほっとした。どうやら、この御仁は自分の話を聞いてくれるらしい。
「確かに果たし合いはしました。でも、私はどこも怪我などしていないのです。それに、果たし合いを申し込んだのも私ですし、勝ったのは彼です。彼は強かった」
トットは目を和ませ、ホッホッホ、と笑った。
「それはそうでしょう。世界を救った勇者ですからな」
「ただの盗賊かと思っていました」
「いやいや。この世に『ただの』盗賊などという者はありませんぞ、ハロルド殿。どの人間にも、生い立ちや過ごした日々があり、どの人間も過去に起こった出来事に影響を受けながら生きてきたのです。誰にでも、あなたと同じように生きた歴史がある」
「わかります」
ハロルドは頷いた。
「剣を交えたとき、彼の信念を垣間見たように思ったんです。彼がどう生きてきたか、これからどう生きていくのかが、伝わってきて……」
「左様ですか」
トットはにっこり笑った。
「それはよかった。ジタン殿は、あの戦いの最中にあって、ガーネット女王様、スタイナー殿、ブルメシアの竜騎士フライヤ殿、リンドブルムのエーコ嬢、その他たくさんの方々に影響を及ぼされた方ですからな。私も、例に漏れませんが。あなたも、生きるということへの考え方がお変わりになるかもしれないですよ」
「それは……?」
「この世に身分という隔たりがあることを、あなたはどう思われますか?」
「え……?」
身分という隔たり。
自分が貴族だからか、身分の差があることは社会秩序のためにいいことだと思ってきた。
平民が働き、税を納め。その報償として平和な世を与える。
それが貴族の仕事だと思ってきた。
しかし、あの大戦があって。
アレクサンドリアが壊滅状態に陥ったとき。
若き女王は立ち上がった。
全てを救いたい、と。
どだい無理な話で、貴族たちはこぞって現状維持を求めた。
つまりは、自分の財産と地位の維持を。
女王は頷き、その代わり、傷ついた国民を救う手助けを、と求めてきた。
そのせいで、あの大戦の前には巨大化しすぎていた女王の権力は、見る間に小さくなってしまった。
しかし、国民の支えとなるべく、彼女は退かなかった。
一度、こんな話を聞いたことがあった。
彼女の側仕えの侍女たちが話しているのを聞いたのだ。
―――女王様、もう少しお力をお抜きになればよろしいのに。
―――そうね。でも、おっしゃってたわ。負けられないのって。
―――負けられない?
―――ええ。国民全てが「幸せだ」って思ってくれる日が来るまで、ご自分は戦い続けるって。
―――そんな……。来るかしら、そんな日が。
―――わたしはね、来るような気がするのよ。その時、女王様、本当に優しくお笑いになっていたから。 |
その話を聞いて以来、女王の力になりたいと強く思うようになった。
その美しい顔を見る度に、胸が躍るようになった。
いつか、一番側に仕えて、国民全てが幸せだと笑う世を共に迎えられるなら……。
しかし。
彼女には、想い人が、いた。
ただの、盗賊の男。
身分なら、自分は申し分ない。剣術だって鍛え上げてきた。
彼女への想いだって、誰にも負けない。
……決闘するしかない。
彼と自分と、どちらが強いのか……。
「ハロルド殿?」
トットに呼び掛けられ、ハロルドははっとした。
「お答えはお出になったかな?」
ハロルドは俯いた。
「答えかどうかわかりませんが……。私は、自分を恥じました」
トットは、ふむ、と頷いた。
「それで結構。ところで、これからどうされる?」
「誰にも知られずにこの家を出て、なんとか彼が戻れるようにしたい、と」
「それは、あなたお一人の力では無理ですな」
「でも……!」
「人の心が変わるためには、大きな力が必要なのです。よく覚えておいてください」
トットの眼鏡がきらっと光った。
「大きな、力です。よろしいですね?」
ハロルドは訳も分からず、気迫に圧されてただ頷いた。
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