五月の薔薇
<1>
アレクサンドリアに穏やかな空気が流れるのは一年振りぐらいだろうか。
―――と言うより、女王があのように穏やかな微笑を漏らすのが一年振りだ。
と、アレクサンドリア国民たちは思っていた。
この一年あまりの間、アレクサンドリアはかなり狂乱とした状況にあった。
ようやく自分たちの力で取り戻したこの穏やかな時を、みな満足して過ごしていた。
女王はよく笑った。
あまりによく笑うので、その笑みに触れた瀕死の病人が生き返ったとか、仏頂面の赤ん坊が初めて笑ったとか、アレクサンドリアでは犬やネコまで笑うなどという噂がまことしやかに囁かれたが、かの聖城の女主人はそんなことにも構わないようだった。
城の中は今や婚礼の準備で嵐のような慌しさだったが、当の本人たちは周りの人間が全てよきに計らってくれるので、意外にもかなり暇だった。
まだあまり咲いていない薔薇園のベンチに座り、ガーネットは少女のように笑っていた。
「違うわ、ジタン。その隣の蕾よ」
「これ?」
「それはまだ咲かないわ」
「じゃ、これか?」
薔薇の花を部屋に飾りたいというささやかな我が侭を叶えるため、ジタンはハサミを片手に薔薇園をあっちへこっちへ歩き回っていた。
「違うわ。そっちの赤い薔薇の蕾よ。開きかけてるでしょう?」
しかし、ジタンにはどこをどう見ても全部同じに見えるので、かなり困っている様子。
ガーネットはクスクス笑った。
「やっぱり、わたしが摘んだ方が早いんじゃない?」
「いいからいいから」
白い細やかな指に薔薇の棘が粗相をしては大変と、ジタンは決して譲らないのだった。
「はい、お待たせ。ご満足いただけましたか、女王陛下?」
ようやく言われたように仕上げた、まだ蕾の多い花束を差し出す。
「どうもありがとう」
とにっこり微笑む姿があまりにも眩しくて、ジタンは目を細めた。
「寒くない?」
「ちっとも。ジタンこそそんな格好で寒くないの?」
ガーネットは、腕を剥き出しにしたいつもの服装のジタンを怪訝そうに見上げた。
「寒い寒い! すっげ〜寒い!」
思いっきりわざとらしく震えて見せると、ガーネットはすっかり真に受けてしまう。
「えっ? だ、大丈夫?」
慌てているガーネットの隣に腰掛け、ぎゅっと抱きつくジタン。
「へへ。あっためてよ、ダガー」
「ちょ、ちょっと、ジタン!?」
頬を幾分赤く染め、ガーネットはジタンを引き離そうともがいた。
「もう、またからかったでしょう?」
「からかってないって」
「嘘つき!」
ジタンは笑いながら、ぷぅっと膨らんだ薔薇色の頬を両手で挟み込む。
ふと、ガーネットの顔が心配そうに曇った。
「ジタン、手が冷たいわよ。大丈夫?」
「そう? ダガーのほっぺたが熱いだけじゃないの?」
「またそう言うこというんだから! もう部屋に帰りましょ」
「まだいいよ。なんか落ち着かないし、城の中。ごたごたしててさ」
それはわたしたちのためでしょ、とガーネットは笑った。
「本当なら、来年になるはずだったのよ? 何とか間に合わせなきゃってみんな慌ててるわ」
二人の結婚が決まったのが一月で、式の予定日が五月。
女王の結婚式の準備を執り行うには、四ヶ月は短すぎる期間だった。
来年まで延ばしたいという意見が多かったが、一年以上も二人を引き離してしまった貴族議会が責任を感じて、何とか今年の五月に、ということになったのだ。
「別に五月じゃなくてもいいと思うけど」
ジタンは少し不機嫌そうに言う。
彼としてはもちろん来年までなんて待てるわけもなかったが、今年の五月でも待ち遠しいほど長い時間に感じるところ。
が、準備側的には五月でもギリギリだと言われ、泣く泣く引いたのだった。
だから、彼の言う「五月でなくても」はもっと近い日取りを言い、それを聞く彼女のほうは秋あたりを思い浮かべた。
「だって、どうしても薔薇園で式を挙げたかったんだもの。五月が一番綺麗なのよ?」
ガーネットは無邪気にその顔を覗き込んだ。
黒い瞳を宝石のようにキラキラさせる恋人の望むことなら何でも叶えたくなってしまう彼には、断然、その意見に反対する意向は微塵もない。
「五月の薔薇なんかより、絶対ダガーのほうが綺麗だろうなぁ」
抱き寄せて額に口付けすると、ジタンは微笑んでそう言った。
「今時そんなセリフ言う人いないわよ」
ガーネットは笑いながら忠告するのだった。
***
女王陛下が結婚する。
これくらい、城のものすべてを巻き込む行事はないだろう。
城に仕える者たちは、それこそ老いも若きも男女問わず、それぞれの準備に追いも追われていた。
霧の大陸に暮らす名家への招待状、会場のセッティング・シュミレーション、当日の献立、準備する飲み物、飾り花、それ以前にブーケの花、婚礼衣装、ベール―――この辺りに関しては絶対引かない女官たちに辟易する宮内大臣の姿があったという―――。城の中は大掃除になったし、ガーネットの部屋が移動にもなる。
二人で暮らすには、今まで使っていた部屋では手狭だろう、と。
そのためガーネットの部屋には始終侍女たちが出入りしており、ガーネット自身は全く気にも掛けなかったが、ジタンは落ち着かないらしかった。
それに、城の中を歩いていると誰かしらに声を掛けられ、やれ婚礼衣装の打ち合わせだとか、部屋の調度はどう置くかだとか、飲み物は何年製のブドウ酒がいいかだとか、面倒なことをさせられたり、聞かれたりするのだった。
とは言え、ガーネットに何かしらの仕事がない限り一緒にいられるので、そんな面倒も端に追いやられてはいるのだったが。
幸福な恋人たちは、思う存分二人の時間を満喫していた。
それもそのはず、周りの人間がそのように計らってくれているのだ。
城の中に戻った二人に、早速女官が近づく。
シッポを巻いて逃げ出そうとしたのは、もちろんジタン。
「ジタン様、そのようにお逃げにならなくても」
と、女官が笑う。
最近、かの『女王の想い人』は、女官を見ただけで逃げ出す傾向にある。
「お仕立係が客間でお待ち申し上げておりますよ。今日こそご寸法をいただきます、と」
「げげっ」
「陛下のご採寸はもうすっかりお済みでらっしゃるのに、あなた様がいつまでもお逃げになるから、痺れを切らしておりますよ」
そう言って、女官はガーネットに目配せした。
陛下も一言おっしゃってください、という合図。
女官たちがいくら言い含めてもほとんど効果のないことは実証済みで、彼女たちの中では「そんな時は、陛下に一言言っていただきましょう」ということに決定しているのだ。
「ねぇ、ジタンったら。子供じゃないんだから逃げ回らなくたっていいじゃない」
ガーネットは窘めるような口調で言う。
「面倒くさいんだって。それに―――ダガーと一緒にいたいし」
と、ジタンはガーネットの肩を抱き寄せ、頬にキスを贈った。
まぁ、と女官が顔を赤らめる。
「じゃぁ、わたしが一緒ならいいの?」
女官の顔は見なかったことにして、ガーネットはジタンに問うた。
「……ダガーが見てる前で採寸するの? それもなぁ」
と、首を傾げるジタン。
「どっちにしろ、測ってもらわなくちゃ衣装は出来てこないわよ」
「そりゃそうだ」
「だったらいい子で行ってきて。ね、ジタン? わたし、その間に仕事を済ませておくから」
完璧に子供扱いである。
「やだ。絶対行かない」
こちらは、完全に駄々をこねる子供状態。
女官は深々と溜め息をつくと、とりあえず客間まで来てくださいね、と念を押して去っていった。
「よし、勝った!」
「勝った、じゃないわよ、もう。いいから早く行ってきてったら。恥ずかしいじゃない」
と、ガーネットは頬を膨らませた。
「じゃぁ、ご褒美ちょうだい」
抜けしゃあしゃあと、ジタン。
「……何でそうなるの?」
「いいからいいから」
はぁ、と溜め息をつくと、ガーネットは辺りに誰もいないのを確認し、背伸びして口付けした。
「はい、これでいいでしょ? あんまり女官たちを困らせないでよ?」
「は〜い」
かなり不安な返事を残し、ジタンは軽い足取りで客間へと向かった。
ガーネットはもう一度溜め息をつき、次の瞬間にはにっこりと微笑んだ。
―――彼女の心情をよく表す行動だ。
彼女は微笑みながら内務室へと歩いていった。
プルート隊員が二名、廊下の柱の影でしばらくの間石化していたという噂が城内を駆け巡ったが、事の真相は定かではない。
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