ガーネットはカレンダーを見つめていた。指で差しながら日付を数えていくが、やはり間違いはなかった。
 かれこれ二ヶ月は経っていた―――ジタンが、最後にアレクサンドリアを訪れてから。






        freebird






 街は一大イベントであるクリスマスを終え、今は新年の穏やかな様相を見せていた。
 そうだ、クリスマスは毎年必ずアレクサンドリアで過ごすジタンなのに、今年はカード一枚で終わってしまったのだ。
 相変わらず、言い訳は「忙しい」。
 ガーネットは執務室からぼんやりと空を眺めていた。眺めながら、無意識に左手の薬指を触る。
 何がどう忙しいのか、詰問したくてたまらない。
 しかし、たまにやって来るジタンの顔を見てしまったら、とてもそんなことはできなかった。


 ベアトリクスがノックして執務室へ入ってきた。
「いかがされましたか?」
 窓の外を見つめている女王に、彼女は訝しげな顔でそう尋ねた。
「いいえ、何も」
 ガーネットは窓の向こうから目を離して、ベアトリクスを見た。
「今日の書類はこれで最後です」
「ええ、ありがとう」
「それから、大臣の一部が流感で寝込みまして、数日お休みを頂戴したいとのことでした」
「まぁ、大変ね」
 ガーネットは書類を受け取りながら、目を丸くした。
「年頭の忙しい時ですが……しかし、ガーネット様はお時間がおできになりますね」
 確かに、大臣たちがサインをしない限り、書類は女王の元へ上がっては来なかった。
「そんなこと言ったら悪いわ」
 ガーネットは苦笑した。どちらにしろ、彼らが復帰すれば倍も忙しくなるのだ。
「せっかくですから、ジタン殿をお呼びになってごゆっくりされてはいかがですか」
 ベアトリクスはそう提案したが、ガーネットの表情が冴えないのを見て「しまった」と思った。
「……考えておくわ」
 ガーネットは暗い表情でそう答えた。



 ジタンはその日も訪ねてこなかった。
 ガーネットは寝室で、色々なことを考えていた。
 ジタンと婚約して、もう一年になろうとしていた。その間、結婚の話は全く進まなかった。ジタンが逃げ回って、打ち合わせにならなかったからだ。
 もちろん、女王ともなれば婚約してからすぐ結婚、という訳にはいかなかった。女王の夫となるからには、ジタンにもそれなりの準備が必要なのだ。
 ジタンもそのことは分かっているだろうに、なぜか次第にアレクサンドリアから足が遠のいていた。
 ―――やはり、結婚したくないということなのだろうか。
 ガーネットは、考えないようにしていた結論に達そうとしていた。
 無理もないことだ、一般市民のジタンが王家に入るのは、きっととても決心の要ること。短期間で結論の出る問題ではないだろう。
 しかも、悪いことに、ガーネットはプロポーズにすぐに「YES」と答えなかった。もしかしたらそのせいかもしれないと、今更ながらそう思った。


 月は空の真上に差し掛かっていた。


 ガーネットは寝衣を脱いで、平服に着替えた。
 このままじっと考えていても、何も答えは出なかった。
 簡単な書置きを枕の上に残し、テラスに出た。風はない。少し肌寒かったが、ローブを羽織れば問題はなかった。
 ジタンは、よくここから部屋を出入りしていた。きっと、やってできないことはないだろう。
 ロープを手すりに括りつけ、下へ垂らした。以前彼が部屋から帰る時に使ったロープをガーネットが片付けたものだから、ちゃんと地面まで届くだけの長さがあった。
 グローブをきちっと手にはめ、手すりを乗り越えると、ガーネットはゆっくりとロープを手繰って地面へ向かった。
 ジタンがやっていたのを見ていたから、方法は分かっていた。
 二階の窓の側を通り過ぎ、一階の窓に近付いた時、遠くの方から鎧のガシャガシャいう音が聞こえてきて、ガーネットは慌てた。
 ―――ジタンは、いつもこんな思いをしてるのね……!
 手が滑って地面に落っこちてしまったが、幸い高さがなかったので、あまり痛くはなかった。しかし、スタイナーが来る前に隠れなければ。
 ロープを目立たないように壁にぴったりくっつくように隠し、生垣の中に身を潜めた。しばらくすると、スタイナーがガシャガシャいいながら通り過ぎて行った。女王が隠れていることには気づかなかったようだ。
 ガーネットは安堵の溜め息を吐くと、辺りを警戒しながら立ち上がった。
 暗闇の中、月明かりだけが頼りだった。以前ジタンが言っていたルートで壁を越え――まさか彼も、彼女がその道を使うことになるとは思っていなかっただろう――湖に出る。畔をぐるっと回って街へ入った。
 真夜中の街は寝静まっていて、ガーネットの知っている街とはまるで別の街だった。誰もいない広場を通り過ぎて、石畳の道を小走りに駆け抜けた。明けの明星亭の明かりも既に消えていた。
 大門は閉じていたが、脇の通用口は鍵が掛かっていなかった。そこをそっとすべり出て、ようやくガーネットは一安心した。後はリンドブルムへ向かうだけだ。
 あらかじめ計画していた通り、荷物からギザールの野菜を取り出して、チョコを呼んだ。



 夜明け前、ガーネットはリンドブルムへ到着した。
 城の人たちは、そろそろ女王の寝所がもぬけの殻になっているのを発見するかもしれない。あまり時間はなかった。
 今日こそは、顔を見ても甘やかさずに聞こうと思っていた。
 どうしてアレクサンドリアに来ないのか、何がどう忙しいのか。
 いつもジタンの方が唐突にガーネットの元を訪れるから、だからビックリしてまともに聞くことができないのだと思った。こちらから訪ねていくなら、どうやって聞こうか、その言葉を考えておくこともできる。
 エアキャブで劇場街へ行き、時計塔を目指して石畳を踏みしめた。
 しかし、ガーネットはその場所へ辿り着く前に、目的の人物に出会ってしまった。
 朝靄の中、ジタンは街の向こうの海へ向かって、「うーん」と伸びをしていた。少し眩しそうに顔をしかめて、昇り始めたばかりの太陽を見つめる表情は、ここしばらく見たこともない程、穏やかだった。
 ガーネットはそれを、少し離れた場所で凝視していた。
 そして、思い出していた。ジタンはいつもこんな風にのんびりと時間を過ごす人だった。そんな自由人なところが、ガーネットにはたまらなく憧れで、そして惹かれたのだ。
 忘れていた。自分の仕事に追われてばかりで、ジタンがどんな人間だったのかさえ忘れていた。
 ジタンはしばらく朝日を眺めると、満足そうな顔をして、ガーネットには気付かずにアジトの方へ歩いていった。
 背中に大きな荷物を抱えているのに気付いたのは、その時だった。
 言われてみれば、こんなに朝早くから一体どこへ行っていたのだろう?
 ガーネットは、こっそりと後を付いていってみた。


「よう、首尾はどうだった」
 バクーが出入り口から顔を出してジタンに手を上げた。
「上々♪」
 ジタンは、背負っていた荷物を地面に降ろし、口を開けて中を見せているようだった。
 バクーが手を入れて、何かを取り出した。
 ガーネットは目を凝らしたけれど、朝日の加減もあってよく見えなかった。何かが光ったようには見えたけれど……。
「まぁまぁだな」
「ちぇ。いつも『まぁまぁ』だもんなー」
 ジタンは口を尖らせたが、やがてバクーの顔色を伺うように上目遣いになった。
「で、そろそろ許してくれる気にはなったわけ?」
「へ、そんなお姫さんに見せるような顔したって無駄だど」
 ジタンはうっ、と呻いた。
「だって、誰のせいでこんな……」
「誰のせいでもありゃしねぇだろ、歌の文句にもある通り、な」
 バクーはガハハと笑って、アジトの中へ戻っていってしまった。
 ジタンは「ちぇ」と呟いて、やはりアジトの中へ入っていった。
 そしてガーネットは、二人がいなくなってもそのままじっとそこに佇んでいた。
 話の経緯は全く分からなかったけれど、恐らくジタンはバクーの仕事を手伝っていて、それをかなり楽しんでいるらしいということは分かった。
 ―――きっと、自分の側にいるよりもずっと楽しいに違いない、ということは。
 目の前が暗くなった気がした。ジタンはアレクサンドリアへ来るのを、本当は喜んでいない。ガーネットの側へ行くことを、本当は望んでいない。
 それでも、彼は責任感から彼女に結婚を申し込んで、そして、あろうことかガーネットはすぐに「YES」と言わなかったのだ。彼が、全てを諦めてアレクサンドリアへ行こうと決心したのに、すぐには「YES」と言わなかった。
 あまりに突然で、驚いたせいだった。付き合いは長いのだから、突然も何もなかったのだが、少なくともガーネットには突然すぎて、思わず「考えさせて欲しい」と口走っていた。
 その事実が、きっとますますジタンを憂鬱にしたに違いない。それでも、ひたすらに責任感から、ジタンはガーネットと婚約した。そう、あれでジタンは責任感が強い人だもの。けれど、いざ結婚となると、彼にはまだその決心が付かないのだ。そうなのだ。まだ完全には諦められないのだ。この自由な生活を、楽しい暮らしを。


 ガーネットは、ギュッと拳を胸の前で組み合わせた。
 どうして気付かなかったのだろう、彼にそんな思いをさせていたなんて。
 このままでは、彼は本当に翼を失った鳥になってしまう……!



***



「ガガ、ガーネット様―――っ!!!」
 スタイナーが、湖の向こうから泳いできそうな勢いで叫んだ。
 太陽は既に空の随分高い位置にあった。ガーネットはアレクサンドリアへ取って返し、今は渡し舟に乗っていた。
「どこへ行かれていたのですか! このスタイナー、胸の潰れるほど心配したのでありますぞ―――!!」
「……ええ、心配を掛けました」
 とガーネットは呟いたが、まだ向こう岸までかなりあったので、どう考えてもスタイナーには届いていなかった。



 ガーネットが残した書置きには、「私用のため、一日ほど城を空けます。よろしくお願いします」としか書いていなかった。それでアレクサンドリア城は騒然となり、一日中、女王の捜索が続いていたのだった。
「ベアトリクスは、リンドブルムへ向かったのであります」
 ようやくガーネットが岸へ着くと、スタイナーがそう言った。
「姫さまはきっとリンドブルムへ行かれたのだろうと」
「そう」
 ガーネットはぼんやりと答えた。ベアトリクス、リンドブルム、全ての言葉が、彼女の右の耳から入って、左の耳から出て行くのみだった。
「姫さま……?」
「疲れました、部屋で休みます」
「は、ははっ!」
 スタイナーは敬礼して、とぼとぼと部屋へ戻るガーネットを見送った。
「……どうされたのだ、姫さまは?」
 と、その姿が城の中へ消えてしまうと、スタイナーはまだ敬礼したまま、首を傾げてそう呟いたのだった。


 どうにも力が出なかった。着替えをする気力もなくて、ぼんやりとソファに身を沈めて、窓の外を見るともなく見ていた。
 リンドブルムからアレクサンドリアへ戻る途中も、ずっと考えていた。ジタンを自由なまま、のびのびと空を飛び回るままにしてあげられる方法。


 そしてそれは、ただ一つしかなかったのだ。


「ガーネット様、お戻りでしたか!」
 気付いたら、ベアトリクスが目の前に立って、ほっとした顔を綻ばせていた。
 彼女は勝手に部屋へ入ったりしないので、きっとノックして声も掛けただろうに、ガーネットは全く気付かなかった。
「リンドブルムでジタン殿とエーコ公女にお会いしたのですが、ガーネット様とはお会いになっていないと仰ったので……心配いたしました」
「ごめんなさい」
 ガーネットは小さく呟いた。実際には、何がどう悪かったのか、ちっとも思い出せなかったが。
「ちょっと、考えたいことがあって」
「どうされました」
 ベアトリクスが跪いて、ガーネットの顔を覗き込んだ。全く生気がない女王の顔は、ほとんど蒼白になっていた。
「ガーネット様?」
「ベアトリクス、お願いがあるの」
「はい、何なりと」
「わたし、婚約を破棄したいの」
「……は?」
 珍しくも、ベアトリクスの口から思わず素っ頓狂な声が上がった。
「な、何と?」
「ジタンとの婚約を、取りやめにしたいの」
「しかし、ガーネット様……!」
「うんん、いいの。そうしたいのよ。本当なの。心からそうしたいのよ」
 と、ガーネットは相変わらず呆然とした顔で念を押した。
「だから、手続きを……どんな手続きなのか、ちょっとよく分からないんだけど……」
「ガーネット様!」
 ベアトリクスが悲痛な声で主の名を呼んだが、ガーネットは「いいの、本当なの」と繰り返した。
「そう、これを送り返せばいいのかしら。本なんかではそんな風にしていたわね」
 ガーネットは、去年の誕生日以来一度として外したことのなかった婚約指輪を、するりと指から抜いた。そして、ベアトリクスの方へそれを差し出した。
「お願いします」
「しかし!」
「違うのよ、本気なの。ジタンと結婚したくないのよ」



***



「そんなはずないであろう!」
 スタイナーが叫んだが、その場の誰も、彼の意見に異を唱えなかった。
 そんなはずはなかった。まさか女王が、あんなにあのシッポの青年を愛しているのに。
「あやつめ……また何かよからぬ虫を!」
 スタイナーが地団太を踏んだが、しかし、ベアトリクスにはそんな単純なこととは思えなかった。
「とにかく、もう一度リンドブルムへ行って、ジタン殿に確かめて参ります」
 ガーネットから預かった指輪を懐にしまいながら、彼女はそう言った。もしかしたら、ジタンに確かめても何も答えは得られないような、そんな予感はしていたが。
「それなら、自分が行くのである! あの軽々しいサルめをこのスタイナーが頭から怒鳴り倒してやるのである!」
 スタイナーが拳を振上げながら大声を出した。カンカンに怒っていて、そうしなければ気が済まないのは明白だった。例えベアトリクスが行くのだとしても、彼は一緒に来るだろう。
「分かりました……それでは」
 と、懐にしまいかけた指輪を、ベアトリクスはスタイナーに手渡した。
 ガーネットのことが気になっていた。彼女を一人にするのは心配だった。
 しかし、今朝のジタンの様子を考えると、何かしでかしたようには見えなかった。スタイナー一人で行かせても、ますます話が抉れる危険がある。
「頭ごなしに叱らず、まずは冷静に話を聞いてきてください、スタイナー」
 そう言ってはみたが、そうならないことは火を見るより明らかだった。

 スタイナーはリンドブルムへ向けて旅立っていった。



 ベアトリクスは、ガーネットの部屋へ向かった。アレクサンドリアへ戻った後も、具合が悪いと言って公務を休んでいた。流行りの流感ではないかと皆が噂していたが、そうではないことを彼女は知っていた。
「ガーネット様」
 ドアをノックして、静かに開ける。ガーネットはベッドに横になっていた。
「お具合はいかがですか」
 側まで行って跪くと、ガーネットが寝返りを打ったのが分かった。
「大丈夫……」
 と、小さく返事をしたその声は、頼りなく揺れていた。
「何か召し上がりたいものはございますか」
「いいえ、何も」
 また声が揺れている。まるで泣いているかのような声だった。
「失礼いたします」
 ベアトリクスは、ベッドを隠している紗を捲り上げた。ガーネットはベッドに寝そべったまま、こちらを見ていた。目元が赤くなって、瞳が潤んでいる。
 ベアトリクスが入ってきたことに驚いて、慌てて布団の中に隠れてしまった。
「ガーネット様」
 やはり泣いていたのだと、ベアトリクスは小さく息を吐いた。
「あれは嘘ですね」
「嘘じゃないわ」
 ガーネットは布団の中からくぐもった声で答えた。
「本当なの、ジタンとはもう結婚したくないの」
「嘘です」
「嘘じゃないのよ!」
 ガーネットは思い余って、顔を出した。
「本当なの」
「何故です?」
「理由は……」
 黙り込んでしまったガーネットを、ベアトリクスは優しく見つめて待っていた。
 やはり、何かあったのだ。ガーネットが「私用」と言うからには、リンドブルムへ行ったのは間違いない。しかし、ジタンと何かあったなら、ベアトリクスが直々に現れれば、彼にはもっと何か反応があっても良かったはずだ。
 ジタンは気付いていない何かが、ガーネットをこんなに追い込んでいるに違いなかった。
「ジタンが、その、いつも、女の人にだらしないから……」
 ベアトリクスが片眉を上げた。
「それが本当の理由ですか?」
「あの、いいえ、違うの。わたしの気持ちが変わったのよ。それだけなの」
「それが本当の理由ですか?」
「気持ちが変わったのは、本当よ」
 ガーネットは赤い目元のままだったが、もう泣いていなかった。その目でベアトリクスを気丈に見上げていた。
「本当なの」
 これ以上ガーネットを詰問する気になれず、ベアトリクスは「分かりました」と言って、そのまま引き下がった。


 ベアトリクスが出て行ってしまうと、ガーネットはほっとしてまた目元を潤ませた。
 スタイナーならいざ知らず、ベアトリクスは気付いてしまうだろうと思っていた。でも、ジタンと結婚する気がなくなったのは本当だったし、それは自分の気持ちが変わったからだというのも本当だった。
 それ以上のことは言えなかった。ジタンを自由なままにしたいなんて、それを知ったら、彼は責任感からきっとアレクサンドリアへ来てしまう。それでは意味がなかった。自分がただ駄々を捏ねただけになってしまうではないか。
 ガーネットは薬指に触った。婚約指輪は返してしまったけれど、ぼんやりしていてこの指輪を返すのを忘れてしまったのだ。
 しかし、この指輪くらいは側に置いておいても許されるのではないか、と、ガーネットは思った。赤と青の石がひっそりと、ガーネットの指にしがみ付いていた。



***



「は? 何言ってんだよおっさん」
 と、ジタンがぽかんと目を丸くした。
「だから、貴様は姫さまに何をしたのかと聞いておるのだ!」
「何をしたって……何もしてないけど」
「貴様――――っ!」
「ちょ、おっさん落ち着けよ!」
「落ち着いてなどいられるものか! 姫さまは、結婚しないのだと仰られたのだぞ!!」
「……へ?」
 ジタンが、前よりもっとぽかんとなった。
「な、どういう、意味だ?」
「貴様とは結婚したくないと仰られたのだ。そう、正しいご選択なのだ、自分はそれには大いに賛成である!!」
 スタイナーは大声で叫んだ。
「しかし、おかしいのである! 姫さまがそんなことを仰るわけがない!」
「……ダガーが? オレと結婚したくないって……?」
 しかし、スタイナーがいくら大声で叫んでも、もうジタンには全く聞こえていないらしかった。彼はぶつぶつと、一人呟いていた。
「ダガーが……」
 ジタンのうろたえ振りで、スタイナーもようやく事の次第を理解し始めた。
「それでは、おぬし心当たりがないのか?」
「……ないわけじゃ……でも、オレは……」
 ジタンはそのままストンと椅子に座り込んでしまった。
「オレ、しばらくダガーのとこに行ってない」
 その言葉に、スタイナーは初めてそういえば、と気付いた。
「何故である」
「仕事が、忙しくて……」
「そんなことが理由になるのであるか? 少なくとも、姫さまはおぬしの婚約相手であるぞ」
「……分かってるよ、分かってたんだ。でも、オレ、ダガーと結婚する前にって思って……」
 そう言ったきり、ジタンはぐったりと机に突っ伏してしまった。
 スタイナーは、その様子に少し慌て出した。なにしろ、ジタンは思いっきり凹んでいる。そしてそれをもたらしたのは、自分自身に他ならなかった。
「そそ、その、自分も言い過ぎたのである」
 しかし、彼はぴくりとも動かなかった。
「何かの間違いであろう。ここ、こういう時は、は、話し合った方がいいのである」
「……」
 シッポまで元気なく床に伸びている。ジタンは撃沈状態だった。



***



 ガーネットは目を上げた。
 数日間、仕事を休んで気分転換するようにとベアトリクスに言われた。しかし、することがなければないほど、ジタンのことばかり考えてしまうのだった。
 薔薇園は早咲きのバラが咲き乱れていた。そこにいれば、少しは気が紛れると思ったのだ。
 そして、そのバラたちの向こうから、ジタンが近づいてきていた。


 いつかは来るだろうと思っていた。


 結婚を取り止めにしたいと言って、はいそうですかと彼が引き下がるわけがないと思っていた。
 理由を聞きに来たのだろうか。それとも、考え直して欲しいと言いに来たのだろうか。
 どちらにしろ、もう彼と結婚する気はないのだと、はっきり示すつもりでいた。
 決意を確かめるために、彼女は胸の前で、両手をギュッと握り締めた。
「ダガー」
 立ち上がった彼女から、ジタンは数歩離れたところで立ち止まった。
「スタイナーから聞いた」
「そう」
 ガーネットは、努めて冷静な声を出した。
「怒ってるんだろ? クリスマスにもこっちに来なかったし」
「いいえ」
「でも、何かに怒ってはいるんだろ?」
「いいえ」
 ジタンは口を噤んで、じっとガーネットを見つめた。ガーネットも、負けじとジタンを見つめた。
 負けてはいけない。結婚する気はないのだと、はっきり言わなくては。
「オレもさ、悪いとは思ったんだけど……やっぱり、自分の力でどうにかしたかったんだよ。ダガーに知られるのも恥ずかしいし」
 ジタンの言葉に、一瞬、ガーネットは首を傾げて眉を寄せた。
「……何のこと?」
「前にさ、バクーの仕事を手伝ってるって話したろ?」
「ええ」
「その仕事ってのが、実入りのいいトレジャーハンティングでさ。ちょっと面倒な場所だから、誰も行きたがらないんだけど」
 ガーネットは、大きな袋を背負っていたジタンの後姿を思い出した。
「で、まぁ、そのお鉢がオレに回ってきちまったわけで……普通なら突っぱねるんだけど、今回はそうも行かなくてさ。どうしてそういうハメになったかって言うと」
 ジタンはゴソゴソとポケットを探り出した。やがて、右手の親指と人差し指で、大事そうに小さな光るものを摘み上げた。
「これ、なんだよ」
 ガーネットにくれた、あの婚約指輪だった。
「それが、どうしたの?」
「これを買うのに……その」
 ジタンは一瞬、言い辛そうに顔をしかめた。
「バクーにさ、借金したんだよな」
「しゃ、借金!?」
「ほら、ダガーは女王だろ? やっぱりそれなりのものはあげたいなー、とか思ってさ。人前に出ればみんなに見られるだろうし。だから、あんまりちっさな石だったら申し訳ないなって」
 ジタンは困ったように後ろ頭を掻いた。
「で、ちょっと背伸びしすぎちゃって」
 ガーネットは呆気にとられた顔で、ジタンを見ていた。
「普通はほら、給料三ヵ月分、とか言うけどさ」
「……それ以上なの?」
「まぁ……オレ給料安いし」
 二人はしばらく、黙ったままお互いを見つめ合っていた。
「そ、それでさ」
 ジタンがコホンと小さく咳払いした。
「ダガーと結婚する前に、バクーから借りた分は全部返しておきたかったわけで―――なんか知らないうちに利子とか増えちゃっててさ。で、それがあとちょっとってとこだったから、その……」
「クリスマスにも来られなかったわけなの?」
「そう、そうなんだ」
 やっと全部言ってしまったらしく、ジタンは少しほっとして笑った。
「ジタン……どうしてそう言ってくれなかったの?」
 そう言ってくれさえすれば、こんなにやきもきしないで済んだのに。ガーネットは涸れたと思った涙がまた滲んでくるのを感じた。
「いや、だってカッコ悪いだろ?」
「格好なんてどうだっていいじゃない!」
「ご、ごめんって、ダガー!」
 ガーネットの瞳が潤み出したのを見て、ジタンは慌てて彼女に駆け寄った。
「ごめん……そんなに傷つけるなんて思ってなくて」
「傷つくわよ、当たり前じゃない!」
 ジタンはひたすら「ごめん」と謝り続けた。
「でも、どうしても今日までには間に合わせたかったんだ」
「今日?」
 ガーネットはきょとんとジタンを見た。
「今日がどうしたの?」
「え? また忘れてんのか?」
 ジタンは苦笑した。いまだ指で摘んだままになっていた指輪を、彼女に示す。
「今年も色々考えてたんだけど……もう一度、受け取ってくれる?」
 それで、ガーネットは今日が何の日だったかを一気に思い出した。どうしてこう、毎年毎年大変なことが起こるのだろう……!
 また一年が廻って、忘れているうちに一つ年を取っていたのだ。
 彼女は思わず彼の問い掛けに頷きかけて、はっとして頭を振る。
「ダメよ!」
 ジタンは「え?」と言い、悲しそうな顔をした。
「もう勘弁してくれよ、全部話したんだし」
「そういう問題じゃないの!」
 ジタンが掴んでいた自分の左手を取り戻しながら、ガーネットは慌てて叫んでいた。
「どういうことだよ?」
「あなたと結婚したくないの、それは本当なのよ!」
「どんだけ謝っても、もう許してくれないってことなのか?」
「違うわ、そうじゃないの」
 ジタンの顔はどんどん悲しそうに曇っていく。しかし、ガーネットは決心を揺るがさないようにと、再び胸の前で両手を握り締めた。
「怒っているわけじゃないもの、それとは関係ないの」
「なら、どうして?」
「……気持ちが変わったからよ」
「どうして、変わったんだ?」
「それは……」
 ジタンの青い目が、悲しげにガーネットを見ていた。その目は、責任を果たせないことを悲しんでいる目ではなかった。まるで、想い人に別れを告げられたことを悲しんでいるような目だった。
 ガーネットの胸は、ざわざわとざわついた。
「ダガー」
 名を呼ばれても、ガーネットは俯いたまま顔を上げられなくなった。
 どう答えれば納得してもらえるのか、あんなにセリフを考えたのに。頭は空っぽで一言も出てこない。
「訳は言いたくないわ」
「ダガー」
「とにかく、結婚はしたくないの」
「ダガー!」
 ジタンは悲痛な声を上げた。
「どうすれば許してくれる?」
「だから、許すとか許さないとか、そういうことじゃないのよ」
「じゃぁ、どうすればいいんだ、オレ?」
「ジタンはどうもしなくていいの……今まで通り、リンドブルムで楽しく暮らしてくれればそれでいいの」
「そんなことできないよ!」
 ジタンが思い余ってその両肩を掴むと、ガーネットはつと顔を上げた。
「できるわよ! だってあんなに楽しそうだったじゃない!」
 ジタンがびっくりしたように目を丸くした。
「……ダガー?」
「トレジャーハンティングの帰りだったんでしょ? 楽しそうにしてたもの。ここにいるより、リンドブルムで今までと同じ生活を送る方が、きっと何倍も何十倍も楽しいわよ。その方がいいのよ」
「何言ってるんだよ……?」
「面倒な場所だって、帰りが朝になっちゃったって、好きなことなら楽しいのよ。あなたの天職なのよ、きっと」
 その時、ジタンは急に思い当たった。仕事が長引いて徹夜になったのは、何日か前に一度だけだった。そして、その日の午前中にベアトリクスが訪ねてきた。叩き起こされたのだから、間違いない。そのベアトリクスは開口一番、ガーネットに会わなかったか、と言ったのだ。
 彼女がリンドブルムに来ているのかと思って、ジタンはそう聞いた。しかしベアトリクスは「お会いになっていらっしゃらないのですか?」と、ものすごく困った顔をしたのだ。
「まさか、ダガー……城を抜け出してリンドブルムに来たのか?」
 ガーネットはビクッと肩を上下させた。小さな震えだったけれど、そこに手を置いていたジタンにははっきりと分かった。
「それで、どこかでオレを見かけたのか?」
 彼女は顔を背けてしまったけれど、それはジタンに「YES」と伝えていた。
「オレが、楽しそうに見えたのか?」
「……ええ」
 顔を背けたまま、ガーネットはそう答えた。
「そうだとしたら、それはダガーのこと考えてたからだよ」
「……え?」
「もうすぐ借金全部チャラになるし、そしたら大手を振ってダガーに会いに行かれるって、そう思ってたんだ」
「嘘よ……!」
 ジタンは首を傾げるようにして、ガーネットの顔を覗き込んだ。
「ホントだよ。仕事の間も、ずっとダガーのことばっかり考えてたんだ。これが終わったらダガーに会えるって、そう思って」
「嘘……!!」
「ダガーに会えないんだったら、きっと面白くもなんともなかったと思う。ダガーのためだから、頑張ったんだ」
 ガーネットは目を見開いたまま、口が利けなくなってしまった。
 ジタンが自由なままでいたくて、それでアレクサンドリアに来ないのだと思っていたのに。ジタンが楽しそうにしていたのは、わたしのことを考えていたから……?
 彼女の頭は混乱を極めた。
「信じてくれた?」
 ジタンは、相変わらず悪戯そうな笑みを浮かべてガーネットを覗き込んでいた。
 悪戯そうな表情に似つかわしくない程、目は本気だった。
「オレがいつもダガーのことしか考えてないってこと、信じてくれる?」
「……でも、頭の中は、覗けないもの……」
「じゃぁ」
 ジタンは小さく、ガーネットの唇にキスを落とした。
「これで信じてくれる?」
 その瞬間、ガーネットは真っ赤になって、キッと顔を上げた。
「ちょっ……ジタン!」
「あれ?」
 しかし、彼は目線を落としてガーネットの左手を見ていた。
「ジタン、聞いてるの!? こんな誰に見られるか分からないところで、どうしてあなたはそうやっていつもいつも……!」
「ダガー、これ」
 ガーネットがうろたえている間に、ジタンは彼女の左手を握り締めて、目の高さまで持ち上げていた。
「オレがあげたやつ」
 何事かと、ガーネットは自分の左手に目をやった。目をやって、思わず叫び出しそうになった。そこには例のものが鎮座ましましていたのだ。
「―――――っ!」
 それで、彼女は思い出した。
 あの指輪をしたままだったのだ。あの、何年か前の誕生日に彼がくれた指輪を。これから別れを告げようと思っていた時に、よりにもよってあの指輪を。左手の、薬指に。
「ダガー……もしかしてオレの心を弄んだの?」
「ちっ、違うわよ!」
「オレ、すげぇ落ち込んだんだけど……」
「だ、だから、こ、こ、これは、ただ、その、着けたまま忘れて……!」
 しかし、ガーネットは最後まで言い訳を続けられなかった。



***



 『ガーネット女王陛下 ご婚礼の日取り決まる。
                    来年のご生誕日に盛大な式を予定』

 と、城下町に一際嬉しい知らせが駆け巡ったのは、1月15日の寒い午後のことだった。



-Fin-









また今年も姫のお誕生日をお祝いできて、とても嬉しいです♪ 主催者のリュートさんに感謝感謝です!

毎年ジタンに振り回されている姫がかわいそうなので、今年は姫が振り回してやれ! と思ったのですが、
書いてみたら、結局姫が振り回されていました(笑) 姫祭の作品は、なぜか毎回そうなります(笑)
ますます続き物っぽくなってますが…たぶん前のものを読んでいなくても分かるように書いたつもりではあります。。
なんかホント申し訳ないです…(^^;)
ラストは来年の予告なのか…は、皆様のご想像にお任せいたします(笑)

2007.1.15  せい





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素材は 天の欠片 様よりお借りしています。